堀河天皇(ほりかわてんのう)

平安時代後期の第73代天皇

生年:1079年(皇紀1739)承暦3年7月9日
崩御:1107年(皇紀1767)嘉承2年7月19日
宝算:

第72代 白河天皇の第二皇子
母親:中宮 藤原賢子(源顕房の娘)(藤原師実の養女)(贈皇太后賢子)
准母:同母姉 てい子内親王(郁芳門院)

諱:善仁(たるひと)

即位:1087年(皇紀1747)応徳3年11月26日
譲位:1107年(皇紀1767)嘉承2年7月19日

元号:応徳・寛治・嘉保・永長・承徳・康和・長治・嘉承

先代:白河天皇
次代:鳥羽天皇

中宮:篤子内親王(後三条天皇の第四皇女)
女御:藤原苡子(贈皇太后)(藤原実季の娘)
皇子:宗仁親王(鳥羽天皇

陵墓:後円教寺御陵

 堀河天皇(ほりかわてんのう)は、平安時代後期の第73代天皇

 堀河天皇は「末代の賢王」といわれる賢帝とされる

 後に、白河法皇が院で政務を執ったことが、院政の始まりといわれる

【堀河天皇の歴史・経緯】

【堀河天皇】

 堀河天皇の性格は上品かつ優雅であり、誠実な人柄で、人望を集めたといわれる

 <末代の賢王>
 堀河天皇は「末代の賢王」といわれる賢帝とされる

 堀河天皇が元服したときに、関白が藤原師通に代わり、
 藤原師通は、白河上皇の政治関与に批判的で、自ら政務を執ろうとする堀河天皇に協力的であり、
藤原通俊、大江匡房らに補佐されて、親政に安定した政治状態になり、「天が下治まりて、民安く世のどかなり」といわれた

 その後、関白 藤原師通が死去し、堀河天皇は、白河法皇に政務を相談せざるを得なくなり、
白河法皇の政務への関与が再び強まり院政が成立する

 院政が始まると、中宮 篤子内親王の影響もあって、情熱を趣味に傾けるようになり
 学問・和歌・音楽、特に管弦を愛好し才能を発揮して、廷臣らに慕われたといわれる

 <歌道
 和歌にも優れていた
 源国信、藤原俊忠、源俊頼らの歌人たちと文芸性を重視した「堀河院歌壇」と称された

 1102年(皇紀1762)康和4年
 歌人たちに恋の歌を詠ませた「堀河院艶書合」を開催する

 当時評判が高かった歌人14名に、100首の和歌を詠ませた「堀河百首」を編んでいる

 堀河天皇も和歌にも優れ、勅撰和歌集には「金葉和歌集」などに9首が入集されている
  「世世ふれど面がはりせぬ河竹は流れてのよのためしなりけり」(金葉和歌集)


 <后妃・皇子女>
 中宮:篤子内親王(後三条天皇の第四皇女)
   叔母で19歳年上で、皇子女は誕生しなかった
 女御(贈皇太后):藤原苡子(藤原実季の娘)(宗仁親王を産んでまもなく死去)
   宗仁親王(鳥羽天皇
 典侍:仁子女王(康資王の娘)
   そう子内親王(大宮斎院)(賀茂斎院
 典侍:藤原宗子(藤原隆宗の娘)(後に藤原家保の妻)
   寛暁(大僧正)
 藤原時経の娘
   最雲法親王(天台座主
 生母未詳
   懐子内親王
   喜子内親王(伊勢斎宮)

【堀河天皇ゆかりの地】

 <御陵>
 後圓教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ)
 龍安寺の背後にある天皇陵墓にある
 公式形式は円丘


 <堀河天皇里内裏跡
 堀河院(堀川殿)は、平安京左京三条二坊九町から十町にかけてあった最初の関白 藤原基経が造営した大邸宅
 (現在の二条通堀川通によって画された東西120m、南北250m程)
 堀河天皇が、 1086年(皇紀1746)応徳3年頃から住まわれ、成長・受禅・崩御された堀河院(堀川殿)の里内裏

 <土御門東洞院殿
 1086年(皇紀1746)応徳3年以前
 堀河天皇が、即位前に御所として用いていたといわれる

 <尊勝寺跡
 六勝寺の一つで堀河天皇の勅願寺

【その他】

 <賀茂競馬会神事
 1093年(皇紀1753)寛治7年
 堀河天皇が宮中武徳殿の式を移し、五穀豊穣の祈願のために始められたのが由来


【京都検定 第10回2級】

[インデックス]


京都通メンバページ

写真:表示/非表示

[目次]


[関連項目]


[協賛リンク]



[凡例]

赤字
 京都検定の出題事項
 (過去問は下段に掲載)

ピンク
 京都検定に出題された
項目へのリンク

青色紫色
 関連項目へのリンク