閑院宮(かんいんのみや)

宮家

宮号:閑院宮(かんいんのみや)

創設:秀宮 直仁親王(なおひとしんのう)(東山天皇の皇子)

四世襲親王家の一つ

 閑院宮(かんいんのみや)は、江戸時代中期に東山天皇の皇子 直仁親王が創設した宮家

 四世襲親王家の一つ

 七代 春仁王が、皇籍を離脱するまで約230年にわたり宮家として存続した

 現在の皇統は、閑院宮2代 直仁親王の王子 祐宮親王が光格天皇に即位されてから閑院宮系の血統となって続いている

【閑院宮の歴史・経緯】

【閑院宮の代々】

 <初代 秀宮 直仁親王(なおひとしんのう)>
 1704年(皇紀2364)宝永元年10月7日〜1753年(皇紀2413)宝暦3年7月3日
 父親:東山天皇
 母親:新崇賢門院 櫛笥賀子

 第四王子の淳宮親王は、鷹司家を相続し、「鷹司輔平」と改名する
 第六王女の倫子女王は、第10代将軍 徳川家治の正室となる

 <二代 壽宮 典仁親王(ひさのみや すけひとしんのう)>
 1733年(皇紀2393)享保18年4月1日〜1794年(皇紀2454)寛政6年8月1日
 父:初代 秀宮直仁親王
 母親:讃岐(伊藤氏)
 妃:成菩提院 壽宮成子内親王(中御門天皇の五女)

 第二王子の俊宮守典親王は、仁和寺門跡 深仁入道親王となる
 第四王子の良宮保業親王は、天台宗天台座主 公延入道親王となる
 第六王子の祐宮兼仁親王は、後桃園天皇の崩御にともない光格天皇となる
 第七王子の寛宮嘉種親王は、聖護院門跡 盈仁法親王となる
 第十王子の建宮は、実相院を相続する
 第八王子の精宮は、曼殊院を相続する

 明治時代に、「慶光天皇」の諡号、「太上天皇」の尊号を贈られる

 <三代 致宮 美仁親王(をきのみや はるひとしんのう)>

 1758年(皇紀2418)宝暦8年1月4日〜1818年(皇紀2478)文政元年11月4日
 二代 壽宮 典仁親王の第一王子
 母親:大中臣祐智女(美仁親王の女房)
 妃:文君因子(近衛内前の長女)

 <四代 壽宮 孝仁親王(ひさのみや たつひと)>

 1758年(皇紀2418)宝暦8年6月17日〜1824年(皇紀2484)文政7年3月9日
 三代 致宮 美仁親王の第一王子
 母親:隋願院 小左近(倉光氏)(美仁親王の女房)
 妃:微妙覚院 鷹司吉子(鷹司政煕の三女)

 第三王子の建宮 弘保親王は、後に、天台座主 教仁法親王となる

 <五代 基宮 愛仁親王(もとのみや なるひとしんのう)>

 1818年(皇紀2478)文政元年2月17日〜1842年(皇紀2502)天保13年10日20日
 四代 壽宮 孝仁親王の第二王子
 母親:微妙覚院 松君吉子(鷹司政煕の三女)

 25歳の若さで薨去され、四代 壽宮 孝仁親王の妃 鷹司吉子(愛仁親王の生母)が当主格とされた

 <六代 易宮 載仁親王(ことひとしんのう)>
 1865年(皇紀2525)慶応元年11月10日〜1945年(皇紀2605)昭和20年5月20日
 父親:第20代伏見宮 睦宮邦家親王
 母親:伊丹吉子
 妃:三条智恵子(三条実美の次女)

 1871年(皇紀2531)明治4年
 伏見宮邦家親王の王子から、閑院宮家を継ぐ
 1871年(皇紀2531)明治4年に、フランスへ留学
 サン・シール陸軍士官学校・騎兵学校・陸軍大学を卒業し帰国
 1891年(皇紀2551)明治24年に、三条実美の二女 智恵子と結婚
 参謀本部に勤務し、その後、騎兵旅団長となり、日露戦争では満州軍総司令部付きの武官として従軍する
 1912年(皇紀2572)大正元年に、陸軍大将となる
 1919年(皇紀2579)大正8年に、元帥の称号を賜わる
 1931年(皇紀2591)昭和6年から1940年(皇紀2600)昭和15年まで参謀総長を務める
 1945年(皇紀2605)昭和20年5月、81歳で薨去され、国葬が行われる

 <七代 春仁王(はるひと)>
 1902年(皇紀2562)明治35年8月3日〜1988年(皇紀2648)昭和63年6月18日
 六代 載仁親王の第二王子
 母親:三条智恵子(三条実美の次女)
 妃:一条直子(公爵 一条実輝の四女)

 陸軍大学校兵学教官などを務め、終戦時には陸軍少将として、戦争継続を主張した
 宮家が敗戦の責任を取り皇族の身分を離れることに対しては「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と反対

 1947年(皇紀2607)昭和22年10月14日
 皇籍を離脱し、「閑院春仁」と改名する

 実業家として成功するが、一条直子とは離婚する
 実子がいなく、養子も取らなかったため、閑院家は断絶となる

【閑院宮のゆかりの地】

 <旧閑院宮邸>
 場所を変えず、京都御苑の南西部に、ほぼ完全な形で残る唯一の宮家屋敷
 江戸時代の宮家の生活が知れる貴重な遺構
 当時の敷地は、現在より広大であり、東は九条池(九条邸の庭園)のすぐ隣まであったとされる
 庭園の池は、2/3ほどしか整備されておらず、残り1/3は地中に埋もれている

 閑院宮邸のあった場所は、鎌倉時代に「第六の摂関家」とも称される松殿家があったところ
 松殿家は、木曾義仲とともに繁栄と衰退し、断絶した

 1718年(皇紀2378)享保3年
 霊元法皇(東山天皇の父親)より、屋敷地が京都御苑の南西部に与えられた
 1788年(皇紀2448)天明8年
 創建当初の建物が、天明の大火で焼失する
 1869年(皇紀2529)明治2年
 閑院宮も東京に移られ、華族会館や裁判所として一時使用される
 1883年(皇紀2543)明治16年
 宮内省京都支庁が置かれる
 2006年(皇紀2666)平成18年3月
 京都御苑の自然と歴史についての写真、絵図などの収納展示室として、庭園などが開放される

【その他】

 <「閑院宮」>
 「閑院宮」の宮号は、平安時代の清和天皇の皇子 貞元親王が、「閑院」を号したことに由来するといわれている

 <尊号一件・尊号事件>
 閑院宮二代 典仁親王の第六王子の祐宮兼仁親王は、後桃園天皇の崩御にともない光格天皇となる
 光格天皇は、父親 典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとしたが、老中 松平定信が反対
 松平定信は、同じように、将軍 徳川家斉が、父親 一橋治済に「大御所」の称号を贈ることも反対していた
 これらのことに、朝幕間は緊張した
 光格天皇松平定信の双方を説得し、事態収拾を図った関白 鷹司輔平は、初代 直仁親王の末子で、典仁親王の実弟にあたる


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