楽家(らくけ)・楽吉左衛門(らくきちざえもん)

楽家(らくけ)は、千家十職の一つの茶碗師を務める家系

楽吉左衛門(らくきちざえもん)は、楽家の当主が代々襲名している名前

 楽家の初代 長次郎(ちょうじろう)は、楽焼の創設者 あめや(阿米也)の息子

 千利休が自らデザインした茶碗を作るために、瓦職人の長次郎に作らせたといわれる

 楽焼とは、轆轤(ろくろ)を使わずに、手と篦(へら)だけで造り、焼上げたもの

【楽家の歴史・経緯】


【楽家の代々当主】

 系譜は、1995年(皇紀2655)平成7年に、14代 覚入により見解が発表されている

 楽家は、代々「吉左衛門(らくきちざえもん)」を襲名する
 3代 道入より以降の当主には、隠居した時に「入」の字を含む「入道号」という名前が贈らる

 <初代>
 長次郎 :生年不詳−1589年(皇紀2249)天正17年

 <二代>
 常慶(じょうけい) :1561年(皇紀2221)永禄4年−1635年(皇紀2295)寛永12年
 長次郎の補佐役をしていたといわれる田中宗慶(長次郎の妻の祖父)の次男
 大振りでゆがみのある茶碗
 「香炉釉」と呼ばれる白釉の使用を始める
 本阿弥光悦とも交流があり、江戸幕府とも関係を保ち、徳川秀忠の芝増上寺のお墓には常慶作の香炉が埋葬されていた

 <三代>
 道入(どうにゅう) :1599年(皇紀2259)慶長4年−1656年(皇紀2316)明暦2年
 二代の長男
 「吉兵衛」を名乗る
 長次郎以外では、唯一「吉左衛門」を名乗らず、別名「のんこう」とも称された
 釉薬を研究し、朱色・黄色など多数の釉薬を使用し、現在まで伝わる技法を完成させた
 本阿弥光悦の影響で、初代や二代とは全く異なる明るい作風が特徴

 <四代>
 一入 :1640年(皇紀2300)寛永17年−1696年(皇紀2356)元禄9年
 三代の息子
 「佐兵衛」の後に「吉左衛門」を名乗る
 初代を模範としつつ、父の技法を取り入れ、地味な色調の中に光沢を持つ作風が特徴

 <五代>
 宗入 :1664年(皇紀2324)寛文4年−1716年(皇紀2376)享保元年
 雁金屋三右衛門の子、四代の婿養子
 「平四郎」の後に「惣吉」を名乗り、28歳の時に「吉左衛門」を襲名
 先代よりさらに長次郎回帰を進める

 <六代>
 左入 :1685年(皇紀2345)貞享2年−1739年(皇紀2399)元文4年
 大和屋嘉兵衛の次男、五代の婿養子
 「光悦写し」の茶碗が特徴
 代表作「左入二百」(1733年(皇紀2393)享保18年作成)

 <七代>
 長入 :1714年(皇紀2374)正徳4年−1770年(皇紀2430)明和7年
 六代の長男
 茶碗以外に香合や花入れなど多数の作品を制作した
 代表作「日蓮像」(楽家所蔵)

 <八代>
 得入 :1745年(皇紀2405)延享2年−1774年(皇紀2434)安永3年
 七代の長男
 1852年(皇紀2512)嘉永5年に父の隠居に伴い襲名する
 病弱のため、父の死後に弟に家督を譲り隠居、「佐兵衛」と改名、30歳で死去
 25回忌の時に「得入」と賜号される

 <九代>
 了入 :1756年(皇紀2416)宝暦6年−1834年(皇紀2494)天保5年
 七代の次男
 「三代以来の名工」といわれる
 へら削りの巧みな造形が特徴
 1825年(皇紀2485)文政8年に近江国石山に隠棲した

 <十代>
 旦入 :1795年(皇紀2455)寛政7年−1854年(皇紀2514)嘉永7年
 九代の次男
 1811年(皇紀2471)文化8年に家督相続し、表千家9代 了々斎と共に紀州徳川家に伺候する
 「偕楽園窯」「西の丸お庭焼き」「湊御殿清寧軒窯」などの開設に貢献した
 1826年(皇紀2486)文政9年、徳川治宝より「楽」字を拝領
 作風は織部焼・伊賀焼・瀬戸焼などの作風や意匠を取り入れ、技巧的で華やかといわれる

 <十一代>
 慶入 :1817年(皇紀2477)文化14年−1902年(皇紀2562)明治35年
 丹波国南桑田郡千歳村(現在の亀岡市千歳町)の酒造業 小川直八の三男
 十代の婿養子
 1845年(皇紀2505)弘化2年に家督相続
 明治維新後、茶道低迷期の中、旧大名家の華族に作品を納めるなど家業維持に貢献した

 <十二代>
 弘入 :1857年(皇紀2517)安政4年−1932年(皇紀2592)昭和7年
 11代の長男
 1871年(皇紀2531)明治4年に家督相続
 茶道衰退期のため若いときの作品は少なく、晩年になって多数の作品を制作する
 大胆なへら使いに特徴がある
 1919年(皇紀2579)大正8年に隠居し、京都本邸と九代の別荘であった滋賀県石山を往復していた

 <十三代>
 惺入 :1887年(皇紀2547)明治20年−1944年(皇紀2604)昭和19年
 12代の長男
 釉薬、技法の研究を歴代中最も熱心に行い、また、楽家家伝の研究を行う
 1935年(皇紀2595)昭和10年に雑誌「茶道せゝらぎ」を刊行
 晩年に太平洋戦争が勃発、研究も作陶も物資不足の中で困難となる

 <十四代>
 覚入 :1918年(皇紀2578)大正7年−1980年(皇紀2640)昭和55年
 13代の長男
 1940年(皇紀2600)昭和15年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科卒
 1960年(皇紀2620)昭和35年以降に好景気となり、作品が充実するようになる
 1978年(皇紀2638)昭和53年、楽家歴代史料をもとに「楽美術館」を開設、文化庁より無形文化財に指定される
 彫刻の理論を生かした立体的造形が特徴

 <十五代>
 当代 楽吉左衛門 :1949年(皇紀2609)昭和24年−
 本名「光博」
 京都府立朱雀高等学校、東京芸術大学彫刻科卒、イタリアローマ・アカデミア留学
 1981年(皇紀2641)昭和56年11月に襲名
 1997年(皇紀2657)平成9年に織部賞を受賞

【その他】

 <楽焼(らくやき)>
 轆轤(ろくろ)を使わずに、手と篦(へら)だけで「手捏ね(てづくね)」と称される手法で造り、焼きあげられる軟質施釉陶器
 素焼き後に、賀茂川黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干し、乾いたらまた釉薬をかける作業を十数回繰り返してから
1000℃程度で焼成される
 焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する

 千利休らの嗜好を反映した、歪んで厚みのある形状が特徴

 茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として用いられる

 長次郎の没後、長次郎の妻の祖父 田中宗慶が、豊臣秀吉から聚楽第の一字を取った「楽」の黄金の印を与えられ、
「楽焼」と称されるようになったといわれる

 <千家十職
 茶道に関わりの深い10の職業を表す尊称
 三千家の宗家 千宗旦(せんのそうたん)が、千利休の茶風を残そうとし、利休好みの作品を作れる者を重用し、
自分好みの道具を作らせるために職人を指導したのが、千家十職の始まりと言われる
 楽家 楽吉左衛門は、陶工・茶碗師として登用された

 1739年(皇紀2399)元文4年9月4日
 如心斎が催した利休百五十年忌の年忌茶会で、陶工 楽吉左衛門ら5名が招かれる
 1758年(皇紀2418)宝暦8年
 宗旦百年忌の茶会には、陶工 楽吉左衛門ら10名の職方が招かれる
 1840年(皇紀2500)天保11年
 利休百五十年忌では、陶工 楽吉左衛門ら10名の職方が招かれる

 <お墓>
 妙覚寺の境外墓地にある

 <寒山像・拾得像(浄土院)>
 長次郎の作といわれる
 本堂の屋根に乗っている陶製の像
 向かって右側が寒山像で、巻き物を携えている、左側は、ほうきに乗った拾得像


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