光忠寺(こうちゅうじ)(KouchuuJi)

所在地:亀岡市北古世町   ちず丸地図情報

浄土宗総本山知恩院派の寺院

山号:寶林山
院号:一行院

本尊:阿弥陀如来

開山:天蓮社秀譽上人

通称:ぼたん寺

 光忠寺(こうちゅうじ)は、亀岡市市街地東部のクニッテル通りにある浄土宗総本山知恩院の末寺

 江戸時代亀山藩藩主だった形原松平家の菩提寺
 形原松平家六代 松平家信から20代 松平信美までのお墓がある

 亀山城の東方にあり、亀山城の防衛にも携わっていたといわれる

 庭には多くの牡丹(ボタン)があり「ぼたん寺」とも称される

【光忠寺の歴史・経緯】

 戦国時代
 1487年(皇紀2147)長享元年
 松平家三代 松平信光の子 松平興副(ともすけ)の菩提を弔うために、二代 松平貞副(さだすけ)が、
天蓮社秀譽上人を開山として、三河国形原(愛知県蒲郡市)に創建された
 形原松平家初代 松平興副の諡号「光忠大居士」にちなんで名付けられた

 以来、形原松平家の菩提所となる

 初代 松平與副から五代 松平家忠までのお墓は、愛知県蒲郡市にある光忠寺に祀られている
 ここ光忠寺には、六代 松平家信から20代 松平信美までのお墓がある

 藩主の領地替えにより、下総佐倉、摂津高槻、丹波笹山を転々とする

 江戸時代中期
 1749年(皇紀2409)寛延2年
 亀山城城下の雷門外の蟠龍庵跡(青山家菩提寺)に移築される

 丹波笹山の光忠寺には末寺の11ヶ寺が残されたが、「今般就御所替申渡法式」が末寺に申し渡され、
末寺は笹山藩主除地となり、江戸時代末期まで、本光忠寺の管理が続いた

 江戸時代末期の大火で伽藍が焼失する

 1984年(皇紀2644)昭和59年から2001年(皇紀2661)平成13年
 本堂や諸堂の復興がされる



【光忠寺の伽藍】

 <山門>

 <本堂>

 <光忠寺庭園「光楽庭」>
 本堂正面の西側にあり、道路との境界に設けられた築地塀沿いの境内に作庭されている
 極楽浄土と来迎を石組と植栽でイメージされている
 全体の石組は、二十五菩薩をイメージした配石が行われ、本堂正面に大降りの立石で三尊石組が組まれている
 石組前には、亀石を表した蓬莱石組となっている

 <牡丹(ボタン)の花壇>
 参道に沿っておかれており、4月中頃から見ごろとなる

 <糸繰姫の血染めの石>
 ある亀山藩藩主が、糸繰姫に夢中になって政務がおろそかになっていた
 家臣が藩主を諫めたところ、聞き入れられて「糸繰姫を下ろせ」と命じられた
 しかし、家臣は「糸繰姫を殺せ」と聞き違えて、糸繰姫を処刑してしまった
 そのときに血が染め付いた敷石が3つに割られ、一つは糸繰姫の実家に、もう一つは光忠寺に移されて供養された

【光忠寺の祭事】

 <修正会> 1月3日
 <別時念仏・涅槃会> 2月16日
 <彼岸会> 3月21日
 <花祭・別時念仏> 4月27日
 <盆棚経> 8月1日から15日
 <彼岸会> 9月23日
 <十夜会・別時念仏> 10月26日

【その他】

 <丸利の家紋>
 本堂の瓦などに、形原松平家の丸利の家紋が用いられている
 4代 松平家広が大樹寺合戦のときに、「利即是」の旗を揚げて戦い、激戦のため、旗の文字が「利」の一字のみとなった
 子孫が、その武勲を忘れないために「利」の字を入れた丸利を家紋としたといわれる

 浄土経典「利剣即是弥陀号」による、阿弥陀如来の名号は衆生の罪業を断尽する最上の利剣にちなんでいる


 <三河大樹寺>
 光忠寺は、三河大樹寺の24末寺の一つ
 大樹寺は、開基 松平親忠、開山 勢譽上人


 <形原神社
 亀山城の三ノ丸跡付近の亀岡市荒塚町内丸にある
 形原松平家の初代亀山藩藩主 松平信岑(まつだいらのぶみね)が祀られている

 <円通寺
 形原松平家の奥方の菩提寺
 光忠寺と同じく、領地替えのたびに領主に随行して移転してきた


 <雷門跡>
 亀山城の5つの城門のうち、東方向への出入口だった雷門
 光忠寺のクニッテル通り向かいの亀岡高校の門のところにある

【光忠寺へのアクセス】

 JR山陰本線(嵯峨野線) 亀岡駅からクニッテル通りを徒歩約15分

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