文覚上人(もんがくしょうにん)(Mongaku)

文覚上人(もんがくしょうにん)は、平安時代から鎌倉時代初期にかけての真言宗の僧

生年:1139年(皇紀1799)保延5年
没年:1203年(皇紀1863)建仁3年7月21日

俗名:遠藤盛遠(えんどうもりとお)

神護寺の中興の祖

弟子:上覚上人、明恵上人

 文覚上人(もんがくしょうにん)は、遠藤盛遠(えんどうもりとお)と名乗る摂津国 渡辺党の武士だった
 北面武士として、鳥羽天皇の第二皇女 統子内親王(上西門院)に仕えた

 従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻 袈裟御前に恋し、
誤って殺してしまったことから、出家し文覚(もんがく)と名乗った

 荒廃しきっていた神護寺を再興するために後白河天皇に強訴したため、
渡辺党の棟梁の摂津源氏の源頼政の知行国であった伊豆国に配流される

 そこで同じく配流の身となっていた源頼朝に平家打倒の挙兵を促す
 その後、源頼朝後白河法皇の庇護を受けて、東寺をはじめ各地の寺院を修復したが、
源頼朝が死去すると後鳥羽上皇に疎まれて佐渡国へ流罪となり客死した

【遠藤盛遠】

 北面武士だった遠藤盛遠が19歳の頃

 鳥羽に住む同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻 袈裟御前(けさのごぜん)に一目惚れをし、何度か密会を重ねるようになり
 遠藤盛遠は、「渡辺渡と別れて俺と一緒になれ」と強引なプロポーズをする
 一本気で思い込みの激しい遠藤盛遠に、袈裟は、「今夜、寝静まった頃に寝所に入って夫を殺して下さい」と告げる

 夜更け、遠藤盛遠は、袈裟に教えられたとおり開け放たれていた扉から難なく寝間へ侵入することができ、
盛り上がった布団に太刀を一突きし、首を切り取り、髪を掴んで表に出る
 月明かりに掴んでいた首を見ると、それは、袈裟御前の首だった

 己の愚かさを知り、この世の無常を思い知った遠藤盛遠は、出家して、
墨染めの衣に身を包み「文覚」と名乗り、厳寒の那智で荒行に挑んだ

【文覚上人】

 文覚は、那智に千日籠り、大峰に三度、葛城に二度、高野、粉河、金峰山、白山、立山、富士山、伊豆、
信濃の戸隠、出羽の羽黒などを修行して回り
京都では、飛ぶ鳥も祈り落とすほどの刃の修験者と噂されていた

 平安時代末期
 1154年(皇紀1814)久寿元年
 延福寺を創建する

 1168年(皇紀1828)仁安3年
 神護寺に訪れ、弘法大師空海ゆかりの寺が荒れ果てていることを嘆き、
境内に草堂を建てて住み始め、火災などで荒廃していた伽藍の再興に着手する

 1173年(皇紀1833)承安3年
 神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、
渡辺党の棟梁の摂津源氏の源頼政の知行国であった伊豆国に配流される

 そこで同じく配流の身だった源頼朝に出会い、平家打倒の挙兵を促す

 1182年(皇紀1842)寿永元年4月
 源頼朝の本願として江ノ島に弁財天を創建し、37日間の断食を行い祈り続けたといわれる

 同年
 浄禅寺を開基する

 1184年(皇紀1844)寿永3年
 文覚は、後白河法皇に「文覚四十五箇条起請文(国宝)」を上程し、神護寺再興の後白河法皇の勅許を得て
 源頼朝からは、若狭国 遠敷郡西津荘の寄進などを受け復興させたといわれる

 1197年(皇紀1857)建久8年
 空海の没後に一時荒廃していた東寺を、後白河法皇の意を得て、源頼朝の援助などを受けて復興させる


【京都検定 第2回2級】


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