亀山城(かめやまじょう)(KameyamaJyo)

所在地:亀岡市荒塚町   ちず丸地図情報

所在地の旧称:丹波国桑田郡亀岡

形式:平山城

亀山藩の藩庁

別称:亀宝城、霞城、亀岡城

 亀山城(かめやまじょう)は、亀山藩の藩庁、現在の亀岡市荒塚町にあった城

 明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、徳川家康によって特に重要視され、近世城郭として整備された

 層塔型5重5階の大天守と、2重の小天守が複合した複合式天守で、日本で最初の層塔型天守ともいわれる

 現在は、神道宗教 大本の聖地 天恩郷として整備されている

【亀山城の歴史・経緯】

 安土桃山時代
 1578年(皇紀2238)天正6年
 織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波平定の拠点として、口丹波にある亀岡盆地の中心地の小高い丘(荒塚山)に築城する

 創建当初は、3重天守があったといわれる

 1580年(皇紀2240)天正8年
 丹波国を拝領した明智光秀は、本格的な城下町の整備が行われる

 1582年(皇紀2242)天正10年
 明智光秀は、亀山城から本能寺の変に出陣していく

 羽柴秀吉は、重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(豊臣秀吉の甥・江の夫)・豊臣秀俊(小早川秀秋)や
豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などを城主にした

 1593年(皇紀2253)文禄2年
 小早川秀秋により、5重天守に改装される

 1595年(皇紀2255)文禄4年
 前田玄以が城主となる

 江戸時代
 1602年(皇紀2262)慶長7年
 徳川家康もこの城を重要視して直轄領とし、北条氏勝(北條氏勝)が着任する

 1609年(皇紀2269)慶長14年
 譜代大名 岡部長盛が、32000石で丹波亀山藩 藩主となる

 徳川家康は、「天下普請」として藤堂高虎を縄張(設計)として、西国大名に命じて近世城郭として大改築される

 1610年(皇紀2270)慶長15年夏ごろ
 亀山城の大改築が完成し、本丸の天守台には層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守があったとされる

 1748年(皇紀2408)寛延元年以降
 形原松平氏が城主となる

 1869年(皇紀2529)明治2年
 亀岡藩へ改称される

 1871年(皇紀2531)明治4年
 廃藩に伴い、亀岡県が置県される

 1872年(皇紀2532)明治5年
 太政官布告による城郭存廃調査の結果、亀山城が廃城される

 1877年(皇紀2537)明治10年
 政府が、亀山城の廃城処分を決定する

 1889年(皇紀2549)明治22年
 市町村に払い下げされ転売される
 以後、多くの遺構は売り払われ、石垣も、JR山陰本線(嵯峨野線)の線路敷設に使われるなど、荒廃していく

 1919年(皇紀2579)大正8年
 神道宗教 大本の聖師 出口王仁三郎により、瓦礫の山となっていた亀山城跡が購入される
 瓦礫が取り除かれると、3段ほどの石垣の基礎が現れ、それを基に散乱した石を掘り起こして積み上げられ、
 神聖な聖地として整備が行われる

 1920年(皇紀2580)大正9年
 石垣が完成する

 1935年(皇紀2595)昭和10年 第二次大本事件
 大日本帝国政府は拡大を続ける大本に警戒を強め徹底的な弾圧を加えた
 拘束した王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させる

 1936年(昭和11年)5月11日から6月12日まで
 大日本帝国政府により、裁判結審前にも関わらず大本施設の破却が進められ、城が破壊され、
 神殿も1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられた

 1945年(皇紀2605)昭和20年
 第二次大本事件が、無罪解決し、所有権が大本に戻され、再び聖地 天恩郷として整備される


【亀山城】

 <明智光秀 築城当初>
 3重の天守


 <小早川秀秋の改築>
 5重の天守


 <縄張 藤堂高虎の改築>
 層塔型5重5階の大天守と、2重の小天守が複合した複合式天守
 大天守の最上階に飾りの回り縁、高欄を付け、最上重屋根に入母屋破風と軒唐破風があるのみで、
それ以外の階や重には、装飾的な窓や破風は一切ない
 日本で最初の層塔型天守ともいわれる


 <亀山城の堀>
 亀山城の南側は、内堀・外堀・惣堀(そうぼり)の三重の堀と御土居が巡らされ、堅牢な造りになっていた
 城郭の搦手(からめて)となる北側は、雑水川や保津川を天然の要害として利用されていた
 北側の南郷公園の南郷池は、内堀として一重にめぐらされているだけとなっていた
 有事の時には、保津川の流れを塞き止め、北側の水田が一気に大きな堀となるように考案されたといわれる

 南側は、街道などが通り大手側となり、内堀・外堀の二重の堀で城の内外を区別して、三重目の堀として惣堀をめぐらした

 <御土居>
 「亀山城地録」によると、
 豊臣秀吉時代の代官であった北条氏勝のときに惣堀が造営され、
 掘り上げられた土を、内側に土手状に高く盛り上げて御土居が造られた


 <寺院>
 御土居と惣堀の内側には、寺院が配置された
 有事のときには、前線として、多くの兵を駐屯できるようにされていた

 <武家屋敷>
 惣堀の外側には、土塀などで固められた、与力などの武家屋敷が建ち並んでいた
 有事の時には、屋敷の門を閉じると、城壁の一部となるような構造になっていた


【亀山城の遺構】

 大日本帝国政府が弾圧した大本事件のときに、ほとんどが破却された

 その後、天守台・石垣・堀・土塁などが修復されている

 「万祥池」と称される池は、内堀跡

 本丸付近の石垣には、天下普請により建立援助にあたった大名の刻印が残っている

 <天恩郷 月宮宝座 (げっきゅうほうざ)>
 天守台の上にある
 約9000個の石を使用した総石造、日本建築史上に類例はないといわれる独創的な建物
 月宮殿の下には、全国各地から寄せられた約1300個の「国魂石」が、信徒の手作業で積み上げられていた
 第二次大本事件により、警保局保安課により、21日間を費やし、1500発以上のダイナマイトが用いられ破壊された
 事件後に、散乱した国魂石を積み上げられ、現在の月宮宝座が完成する
 頂には重さ約7.5トンの「天拝石」がある

 明智光秀が手植えしたといわれる銀杏の木(2代目)が残っている


 < 南郷公園
 亀山城の外堀跡の南郷池を中心とした公園
 「明智光秀公 築城 亀山城趾」の石碑がある
 公園の入口に、亀山城の天守閣にあった1852年(皇紀2512)嘉永5年鋳造の一対の鯱瓦の復元像が飾られている
 鯱瓦の土台には亀岡城の天守が描かれている


 <亀岡市立千代川小学校>
 亀山城 新御殿門(長屋門)が移築されている


 <大覚寺
 表門の横にある明智門は、亀山城より移築されたもの
 明智陣屋は、亀山城の一部といわれる


 <聖隣寺
 城跡の南東にある
 光秀が、亀山築城時に鎮護として二の丸に安置していたものを、後に城下町の守護神として現在の地に移築されたといわれる
 境内の墓地の一番奥には、織田信長の供養塔があるといわれる





【城下町の遺構】

 亀山城の南側は、内堀・外堀・惣堀(そうぼり)の三重の堀と御土居が巡らされ、堅牢な造りになっていた

 <雷門跡>
 5つの城門のうち、東方向への出入口だった雷門
 北古世 亀岡高校のクニッテル通りに面した門のところ、光忠寺の向かいにある


 <古世門跡>
 古世地蔵堂付近にある
 5つの城門のうち、大手門の東よりにあった南方向への出入口だった古世門があった


 <大手門跡>
 5つの城門のうち、南方向の大手への出入口だった門
 内丸の形原神社付近にある

 <御館跡>
 内丸の形原神社付近にある
 亀山城城内の本丸御殿が手狭であったため、藩主の対面所とされていた御館
 典型的な大名屋敷だった
 772坪、表の間590畳、奥の間174畳


 <御勘定所跡>
 内丸の形原神社の向かい側付近にある
 1793年(皇紀2453)寛政5年の山陰丹府桑田亀山図には「御勘定所」と記されている
 1829年(皇紀2489)文政12年の亀山藩職員録には、「勘定所大目付1名、勘定所19名」と記されている


 <惣堀跡>
 正誓寺付近や、聖隣寺付近にある
 亀山城の南側の一番外側で3番目の惣堀跡
 この惣堀の外側には、足軽屋敷があった


 <外堀跡 穴太口付近>
 西町 大圓寺の裏門あたり

 <穴太口>
 城下町から穴太寺方面の出入口

 <道標「左あなお妙けん道」>
 穴太口に残っている
 裏面には「愛宕山常夜燈」と彫られている
 1817年(皇紀2477)文化14年の建立


 <坂部児童公園>
 惣堀を守るために作られた立派な土塁が残っている
 公園の手前には、カギ状に道が曲がる「遠見遮断跡」もある

 
 <与力町跡>
 現在の古世町付近
 亀山城の下町の町割には、武家地や町人地などがあった
 1793年(皇紀2453)寛政5年の山陰丹府桑田亀山図では、
 惣堀の外側にあたり、与力組の組屋敷が集まっており「与力町」と記されていた

【亀山城跡へのアクセス】

 JR山陰本線(嵯峨野線) 亀岡駅 南へ徒歩約10分
 

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