松平定信(まつだいらさだのぶ)(Sadanobu Matsudaira)

江戸時代の大名、老中

生年:1758年(皇紀2418)宝暦8年12月27日
没年:1829年(皇紀2489)文政12年5月13日
享年:72

父親:田安宗武(御三卿田安徳川家の初代当主)
七男
母親:山村とや(香詮院殿)
養母:御簾中近衛氏(宝蓮院殿)
8代将軍 徳川吉宗の孫

幼名:賢丸
号:楽翁・花月翁など

久松松平家第9代当主
陸奥白河藩11万石 第3代藩主
江戸幕府老中首座
将軍補佐(第11代将軍 徳川家斉)

官位:贈正三位
官職:左近衛権少将

 松平定信(まつだいらさだのぶ)は、江戸時代の大名、老中

 陸奥白河藩第3代藩主

 白河藩主としては、江戸時代後期の名君の一人として高く評価されている

【松平定信の経緯】

【松平定信の政策】

 <寛政の改革>
 江戸幕府の三大改革の一つ
 農業を重視し、荒廃農村の再建・飢饉対策の米備蓄・七分金積立による江戸町会所設立・人足寄場などを設置する
 棄捐令により、困窮した旗本・御家人を救済する
 朱子学を正学とする「寛政異学の禁」を出し、湯島の聖堂を幕府の学問所として整備拡充する
 医学館・和学講談所の整備などを実施する
 「大政委任論」を表明し、曖昧だった朝廷との関係を明確にして幕府権威の強化を図る
 ロシア使節ラクスマンの通商要求に、「鎖国は祖法である」と表明し、江戸湾防備計画を自ら視察して立案
 北方防備のため北国郡代の新設など国防体制を検討する
 朝鮮蔑視観から通信使の延期、対馬聘礼も行った

【松平定信の主な編著作】

 学問を好み、100以上の著書を残している

 <「花月草紙」>
 師の大塚孝綽ともに国学には否定的で、本居宣長の「もののあはれ」などを批判している

 <「宇下人言」>
 「宇下人言」は「定信」の字を分解してて付けた名前といわれる
 幼少の頃は短気だったが、師の大塚孝綽・黒沢雉岡や水野為長の3名の指導によって性格が改まった旨が記されている
 儒学(朱子学)を尊重し、自らの欲望をも極端に抑えており、
 「房事(性行為)というものは、子孫を増やすためにするもので、欲望に耐え難いと感じたことは一度もない」と記されている

 <「集古十種」>
 85巻
 古画古物を模写した約2,000点から成る図録集で、古文物の研究をし、編集刊行されている

 <「寛政重修諸家譜」>
 <「徳川実記」>

 <「大名かたぎ」>
 <「心の草紙」>

【その他】

 <京都御所
 1788年(皇紀2448)天明8年
 天明の大火により里内裏となっていた土御門東洞院殿も焼失し、老中 松平定信が幕府の命を受けて内裏の造営にあたる
 有職故実家 裏松固禅が作成した大内裏図考証にもとづき、基づき古制にならって復元させる
 現在の京都御所の原型となった


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