明智光秀(あけちみつひで)(Mitsuhide Akechi)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

生年:1528年(皇紀2188)享禄元年
没年:1582年(皇紀2242)天正10年6月13日
享年:55

本姓:源氏
家系:清和源氏の摂津源氏系 美濃源氏土岐氏支流である明智家
賜姓:惟任(これとう)

父親:不詳(明智光綱、明智光國、明智光隆)
母親:不詳(若狭武田家出身 お牧の方)

通称:十兵衛
雅号:咲庵(しょうあん)、惟任光秀とも

妻:妻木煕子(ひろこ)
息子:光慶、十五郎など
娘:珠(細川ガラシャ)(細川忠興の妻)、津田信澄の妻、明智光忠の妻、明智秀満の妻など

日本三大謀反の一つ

出身:美濃国
お墓:西教寺、高野山奥ノ院

 明智光秀(あけちみつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

 全国平定を目前にした織田信長のナンバー2の重臣で、朝廷との調停役などを担っていた

 本能寺の変で、織田信長を討ち、寺社や京の焼き討ちなどを行っていた織田信長の恐政を絶ち、世の平定の道筋を作った

 丹波国や滋賀郡など京の隣国の重要な地などを治め、善政を行ったとされ、領国の各地で祀られている

 本能寺の変の謎は多く、様々な説の伝承があり、その後の山崎の戦いでの敗因も様々な要因がいわれるが、
 本能寺の変で、信長が光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦めたほどの戦略家・知将であった光秀は、
全てを想定した上で、朝敵・仏敵となっていた信長の恐政を絶ち、秀吉家康に安定的な世の平定を託したといわれる

 肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には、
本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている

 本能寺の変の翌日には、大山崎の町に、戦火から守る禁制を出したおり、
秀吉と山崎の地で戦うことを、あらかじめ示し合わせてあったといわれる

 山崎の戦いの後は、南光坊 天海として徳川将軍3代にわたりブレーンとなり、江戸幕府の基盤と築いたといわれる

【明智光秀の歴史・経緯】

 出生は不詳

 戦国時代
 1528年(皇紀2188)享禄元年
 美濃国(現在の岐阜県可児市明智)の明智城において、
 清和源氏の摂津源氏系の美濃源氏土岐氏支流である明智家に生まれたとされる
 父親は不詳で、明智光綱、明智光國、明智光隆などと伝えられている
 母親は、若狭武田家出身のお牧の方といわれる

 美濃国の守護 土岐氏の一族で、土岐氏に代わって美濃国の国主となった斎藤道三に仕える

 1556年(皇紀2216)弘治2年 長良川の戦い
 斎藤道三・義龍父子の争いで、明智家は斎藤道三についたことから、斎藤義龍に明智城を攻められ一族の多くが討死し離散する

 1562年(皇紀2222)永禄5年
 光秀は、諸国を放浪の後、越前国(福井県)の朝倉義景に、鉄砲の射撃技術をかわれて召抱えられる
 その後、10年間仕えることになる

 1563年(皇紀2223)永禄6年
 朝倉義景の約100名の鉄砲隊を指揮する

 1565年(皇紀2225)永禄8年
 室町幕府13代将軍 足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺されると、
その弟 足利義昭が姉婿である若狭国守護 武田義統のもとに逃れ、さらに朝倉義景を頼ってきたことから、
光秀は、足利義昭と面識をもつことになる

 1567年(皇紀2227)永禄10年
 足利義昭は上洛を期待していたが、朝倉義景にはその器量も野心もなく動かなかったため、見切りをつけて、
光秀を通じて、斎藤氏から美濃を奪取した織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるよう要請する
 足利義昭は、信長の正室 濃姫(斉藤道三の娘)が光秀の従兄妹だったことから、その縁を頼ったともいわれている
 光秀は、足利義昭を立政寺(岐阜市)において信長と会見をさせる

 光秀は、足利義昭に見込まれ、付き従う形で朝倉家を去り、足利義昭との仲介者として信長の家臣となる

 1568年(皇紀2228)永禄11年
 信長足利義昭を奉じて上洛し、14代将軍 足利義栄を追い出して、15代将軍 足利義昭を擁立する

 光秀は、信長の家臣として、室町幕府の幕臣にもなり、朝廷との交渉役にもなった

 永禄12年(1569年)4月頃から
 光秀は、木下秀吉(豊臣秀吉)・丹羽長秀・中川重政の重臣4人で、信長が支配する京都と周辺の政務に当たり、
事実上の京都奉行の職務を行う

 1570年(皇紀2230)元亀元年
 足利義昭は、信長からの締め付けが強くなり、諸大名に「上洛して信長をけん制せよ」と促す
 浅井氏・朝倉氏が挙兵し、本願寺延暦寺など宗教勢力も「打倒信長」を掲げ立ち上がる

 同年6月28日 姉川の戦い
 現在の滋賀県長浜市付近で、浅井・朝倉軍と、織田・徳川軍の激しい戦いが起こる
 光秀にとっては、浪人時代に召抱えてくれた恩人である元主君の朝倉義景との戦いになる

 同年9月12日 比叡山焼き討ち
 信長は、比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、僧侶・学僧・一般人・老人・児童まで皆殺しにしろと命じる
 光秀は、信長に抗議し、事前に、周辺の有力者たちに事前通告の書状を送り、被害を最小限に抑えようとする
 4日間で約3千人を虐殺した中心実行部隊として武功を上げる

 この功績により、近江国滋賀郡(約5万石)、築城費黄金千両を与えられ、坂本城の築城を始める
 信長の重臣の中で初めて一国一城の武将となる(豊臣秀吉が長浜城を持つのは3年後)

 将軍 足利義昭は、これ以上に信長の権力が大きくなることを危惧し、武力対決への準備を進める

 1571年(皇紀2231)元亀2年頃
 坂本城が完成し居城とする

 足利義昭に、暇願いを出すが不許可となる

 1573年(皇紀2233)元亀4年3月
 足利義昭が築かせた今堅田城(大津市北部)に立て籠っていた本願寺勢力を攻略する
 光秀は、この戦いをきっかけに、足利義昭と決別して信長の直臣となる

 同年7月
 光秀は、足利義昭が立て籠もる槇島城(宇治市槇島町)への攻撃に加わるよう命じられる
 足利義昭は、7万の軍勢に包囲され槇島城が大破し、家臣にうながされ降伏し
 光秀が尽力して復興させた室町幕府を、光秀自らの手により崩壊させることになる

 1574年(皇紀2234)天正2年正月
 信長の家臣達が正月の宴に招かれ、金箔が張られた浅井父子と朝倉義景3人の頭蓋骨を盃にして酒を飲めと命じられる
 光秀は、「かつての主君だ」と抗議するが強要される

 1575年(皇紀2235)天正3年
 朝廷より、従五位下と「惟任(これとう)」の姓を賜り、日向守に任じられる

 同年2月6日
 信長丹波平定を命じられ、現在の亀岡市に入り、福井氏、宇津氏を攻める

 同年5月
 近畿諸国での光秀の立場が強まり、織田家重臣のほとんどが参加した三河国での長篠の戦いには参加しなかったといわれる

 同年8月 越前一向一揆討伐
 信長に対抗する越前(福井県)の一向一揆の討伐で武功をあげる

 同年9月
 光秀は、越前(福井県)より坂本城に帰城

 同年10月初旬
 丹波征討戦の総大将として出陣する

 黒井城(兵庫県丹波市)に帰城した荻野直正を、光秀は周囲に数ヶ所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲する

 1576年(皇紀2236)天正4年1月15日
 八上城(兵庫県篠山市)城主 波多野秀治の裏切りで3方向から攻め立てられ、光秀軍は黒井城包囲から総退却となる

 同年4月14日
 信長に命じられ、信長に反抗する石山本願寺(現在の大阪城付近)を三方から包囲する
 同年5月11日
 石山本願寺攻めの最中に、天王寺の陣所で病で倒れる

 同年11月7日
 妻 煕子が、光秀の病の看病疲れなどで病死したともいわれる

 1577年(皇紀2237)天正5年2月
 本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(和歌山市付近)を攻める

 同年10月5日 信貴山城の戦い
 信長を2度も裏切って信貴山城(奈良県生駒郡)に籠城する松永久秀を、織田信忠(信長の子)と共に攻略する

 同年10月29日
 丹波の入口にあたる籾井城(籾井綱利)(兵庫県篠山市)を攻め、落城させる

 守護代 内藤氏の籠もる亀山城亀岡市)を攻め、短期間で攻略する

 同年12月
 坂本城に戻る

 1578年(皇紀2238)天正6年2月
 光秀は、亀山城亀岡市)を築城し始め、丹波平定の拠点とする

 同年3月
 上杉謙信が急死し、一気に信長が優勢になる
 翌月には、信長は、もう朝廷の力などは必要ないとして官職の右大臣を放棄する

 同年3月
 丹波国一円に勢力を持っていた八上城(兵庫県篠山市)城主 波多野秀治・波多野秀尚兄弟を攻めるために
与力の細川藤孝と共に坂本城を出発

 3月14日
 八上城を取り囲み、包囲を完成させる

 その後間もなく、石山本願寺攻めに向かう

 4月
 園部城攻め

 7月16日
 神吉城(播磨国印南郡)(兵庫県加古川市)を落城させる

 同年8月
 光秀の三女 珠(細川ガラシャ)が、細川忠興(盟友 細川藤孝の息子)に嫁ぐ

 同年11月
 荒木村重の息子に嫁いでいた長女 倫子が離別して戻ってくる
 荒木村重は、信長に背き石山本願寺に兵糧を送っていたとして、籠城の後に毛利のもとへ逃げる
 信長は、見せしめに村重一族37人を六条河原で斬首、女房衆120人を張付け、侍女の子供など512人を
4件の家に閉じ込めて焼き殺す
 光秀の元に、荒木の武将夫妻が、自らの命と引き換えに一族を救うため「武士の情けを」と慈悲にくるが、
信長は、夫妻を処刑する

 三田城(兵庫県三田市)を落城させる

 1579年(皇紀2239)天正7年4月
 波多野宗長・宗貞父子が籠もる氷上城(兵庫県丹波市)を落城させる

 同年5月
 4年越しで兵糧攻めにしていた八上城(兵庫県篠山市)の波多野秀治を捕らえる
 波多野秀治を降伏させ投降後の身の安全を保証するために、光秀の母親を人質に差し出すが、
信長が波多野秀治を処刑してしまい、波多野の家臣達により母親が殺されてしまう

 同年7月初旬から8月9日
 細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長・明智秀満らの光秀軍が、第二次黒井城の戦いで勝利、赤井忠家を攻略する

 同年8月20日
 塩見信房とその弟 塩見信勝の横山城(福知山市)を落城させる
 その後、福智山城と改名し、大修築をして、城代に藤木権兵衛と明智秀満を置く

 同年10月
 一色義道の建部山城(丹後国加佐郡)(舞鶴市下福井)を落城する

 丹波国・丹後国の両国の平定をほぼ成し遂げる

 1580年(皇紀2240)天正8年
 信長より「粉骨のたびたびの功名、比類なき」と称賛され、
 近江国滋賀郡に加え、丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領する

 丹後の長岡藤孝(細川藤孝)、大和の筒井順慶等、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられ、
 それらの所領を合わせると約240万石になる

 京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられ、織田家における最も重要な地位を得る

 これにより、中国地方の毛利勢の山陰道からの東上路をふさぐこととなる

 家老 斎藤利三に黒井城の増築をさせ、氷上郡の領主とする

 1581年(皇紀2241)天正9年正月
 光秀は、坂本城で連歌会やお茶会を主催する

 同年2月
 京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃」の運営を任される

 同年8月14日
 光秀は、親しくしていた津田宗及を、築城して間もない周山城(右京区)に招いて、十五夜之月見を催したといわれる

 1582年(皇紀2242)天正10年3月
 長篠の戦い以降も抵抗していた甲斐国の武田勝頼などの甲斐征討に従軍する

 同年3月11日
 織田信長は、甲斐国の武田勝頼・信勝親子を天目山に追い詰めて自害させる

 織田軍の羽柴秀吉は中国地方で毛利家と、柴田勝家は北陸地方で上杉家と戦闘をしていた

 3月27日
 信長は、軍勢を現地解散し、甲府より返礼に来た息子 織田信忠を諏訪に残して
甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら帰国の途につく

 武田攻めに参戦した滝川一益は、そのまま信濃に駐留して、関東地方の北条家と対峙する
 徳川家康は、武田攻めの長年の功績として武田家の領地であった駿河の国が与えられ、安土城に招待される

 4月3日、信長は、新府城の焼け跡を見物し、かつての敵 武田信玄の仮御殿にしばらく滞在
 4月10日、信長が、甲府を出発する
 4月21日、信長が、安土に凱旋して到着する

 4月23日
 正親町天皇は誠仁親王への譲位を迫られ信長と争っており、信長は無官・無位のままであったが、
勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)が、甲州征伐の祝賀の勅使として安土に到着する
 勧修寺晴豊は、信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙するという「三職推任」を打診する

 5月4日
 誠仁親王の親書を添えた勅使が再び訪問し、信長の接待を受けるが、将軍任官の話はなかったといわれる

 5月7日
 信長は、光秀を介して織田家に貢物を贈っていた土佐(現在の高知県)の長宗我部元親との約束を反故にし、
信長の三男 織田信孝を総大将にして、重臣の丹羽長秀なども加えた主力部隊で四国討伐することを決める
 光秀は、長宗我部元親との取次役を担っており、光秀の重臣 斎藤利三は妹を長宗我部元親に嫁がせていた

 信長は、光秀に、戦いには出ずに安土を訪れる家康の接待役を務めるように命じる

 5月15日より3日間
 家康が安土城に到着し、接待役の光秀は、京都や堺から珍物を多くさん取り揃えて家康をもてなす

 5月17日
 備中高松城を攻囲中の秀吉から、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の援軍が現れたため応援を要請する旨の手紙が届く
 信長は、自ら出陣して、中国から九州まで一気に平定してしまおうとし、堀秀政を使者として備中に派遣して伝え、
 光秀と、その与力衆(長岡藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満)に援軍の先陣を務めるように命じた

 同日中に
 光秀は、坂本城に向かい、出陣の準備を始める

 5月21日
 信長の嫡男 信忠が上洛して、一門衆、母衣衆などを引き連れて妙覚寺に入る

 5月26日
 光秀は、居城である亀山城に戻る
 17日から、この日まで光秀がどこで何をしていたかは不明になっている

 5月27日
 光秀は、亀岡市の北に位置する愛宕山に登って愛宕神社の愛宕権現に参拝し、宿泊する

 愛宕山月輪寺で、おみくじを数度引いて神意を読んだといわれる

 5月28日
 光秀は、愛宕山の愛宕五坊の一つ威徳院西坊で連歌会(愛宕百韻)を催す

 28日中に亀山城に帰城する

 5月29日
 信長は安土城を留守居衆と御番衆に託して「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて、
供廻りを連れずに、約150騎と小姓衆が30人の約180人ほどで上洛し、同日、京での定宿であった本能寺に入った

 6月1日
 信長は、前久、晴豊、甘露寺経元などの公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で、名物茶器のコレクションの品評会や茶会を開く
 夜は、酒宴となり、妙覚寺より信忠が来訪して、信長・信忠親子は久しぶりに酒を飲み交わしたといわれる
 深夜、信忠が帰った後も、信長は、囲碁の名人 本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁の対局を見て楽しんだといわれる
 本能寺には、小姓、護衛の一部の約100人ほどが宿泊した

 同日
 光秀は、1万3,000人を率いて亀山城を出陣する

 光秀は「上様より飛脚があって、中国出陣の準備ができたか陣容などを検分したいとのお達しだ」と説明したといわれる

 同日午後6時頃(酉の刻)
 光秀は、篠村八幡宮で軍議を開き、明智秀満(弥平次)・明智光忠(次右衛門)・斎藤利三・藤田行政(伝五)・溝尾茂朝らに
信長が他将と合流する前に信長を討伐することを告げ、作戦を練ったといわれる

 亀岡から西国への道は、当時は、南の三草山を越えるのが普通であったが、
光秀は「老ノ坂を上り山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせ、
老ノ坂峠を越えて、沓掛で休憩をする

 6月2日未明
 桂川に到達すると、光秀は、馬の沓を切り捨てさせ、足軽には新しく足半の草鞋に替えるように命じ、
火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本づつ火先を下にして持つよう指示し、戦闘準備を行い、
東に向きを変え、二手に分かれて信長が宿泊していた本能寺に向かう

 同日曙(午前4時頃)
 明智勢は、全周を水堀で囲まれていた本能寺を完全に包囲する

 前列には鉄砲隊が並び、四方から一斉射撃が行われ、四方より攻め込み戦闘となる

 信長は、明智の軍勢と聞いて一言「是非に及ばず(やむおえぬ)」と言ったといわれ、
光秀の戦略性やその能力から、脱出は不可能であろうと悟ったものといわれる

 信長は、御殿の奥深くに籠り、内側から納戸を締めて切腹し、森蘭丸に遺骸の上に畳を覆いかぶさせたといわれる

 同日午前8時前(辰の刻)
 本能寺での戦闘は終わったとされる
 光秀は、信長の遺骸を探し回ったが見つからず、二条御新造の攻撃に向う

 信長の長男 織田信忠は、本能寺より、北北東に1.2km離れた妙覚寺(旧地)にいて、
光秀の討ち入りを聞いて、本能寺に向かおうとしたが、京都所司代 村井貞勝(春長軒)ら父子3名が駆け付けて、
全周を水堀で囲まれている本能寺に接近することは困難であることから、織田信忠を制止し、
妙覚寺の隣にある構えが堅固な二条御新造に移ることを進言する

 信忠らは、二条御新造に移る

 明智勢は、村井貞勝の調停により一時停戦し、
二条御新造にいた東宮 誠仁親王と若宮和仁王(後の後陽成天皇)らを内裏へ脱出させる

 同日正午頃(午の刻)
 明智勢の約1万が、二条御新造の包囲を終えて、信忠は脱出が不可能となる
 信忠の軍勢は、1時間以上の獅子奮迅の戦いを見せ応戦すが、明智勢が屋内に突入して建物に火を放つ
 信忠は、鎌田新介に介錯を命じて切腹し、床下に隠して焼かせたといわれる
 信長の弟 織田有楽斎は、二条御新造から脱出して安土城を経て岐阜へと逃れた

 同日午後2時頃(未の刻)
 二条御新造での戦闘も終わる
 光秀は、織田家と縁のある阿弥陀寺の玉誉清玉上人を呼び丁重に葬るよう依頼したといわれる

 肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には、
本能寺の変の後、光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状があり、
その中で、光秀は本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている


 明智光秀は、京の治安維持に当たり、
武田元明・京極高次らの軍を近江に派遣して、坂本城や安土城の周辺を平定して、京以東の地盤固めを行い、
織田軍勢の中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えをする

 光秀は、全国の諸将へ向け「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、賛同を求める書状を送る

 諸将達は、信長の命で戦いを強いられてきて疲弊をしており、羽柴秀吉や柴田勝家との戦を避けたく、
また、自身も家臣から討たれる恐れがある謀反を認めることができず動きが取れなかった

 堺にいた家康は、すぐさま伊賀越えをして自国の岡崎城へ帰った
 (岡崎城から光秀討伐に向かったが、鳴海まで着いたところで、既に合戦が始まった知らせが入り反転して、
領主がいなくなった甲斐・信濃の領土化を目指した)


 6月3日
 細川藤孝・忠興父子は、松井康之を通じて「喪に服す」と、織田信孝に二心の無いことを示し、
光秀を裏切ることになり武士の資格はないとして剃髪し中立の構えを見せる

 細川忠興は、妻である光秀の娘 珠(細川ガラシャ)を、守るために辺境に幽閉する

 奥丹後の領主 一色氏は、光秀に応じて、南丹後の細川氏は軍勢を動かせなくなる

 光秀は、大山崎の町を戦火から守るために、大山崎の町に禁制を出したといわれる

 同日
 柴田勝家は、信長の命で動いていた上杉方の魚津城(富山県魚津市)を落とす

 6月3日夜から4日未明にかけて
 秀吉は、本能寺の変の報告を受けて、ただちに毛利軍との和議を結ぶ

 6月4日午前10時頃
 秀吉は、堀尾吉晴・蜂須賀正勝を立会人にして備中高松城の守将 清水宗治の自刃の検分を行い、開城する

 柴田勝家も本能寺の変を知り、上杉との停戦して、前田利家、佐々成政らに託して京を目指す
 (越前と近江の国境の柳ヶ瀬峠まで着いたところで合戦の報が入り、京へは向かわずそのまま清洲城に向かう)

 光秀は、勢多城(大津市瀬田)城主の山岡景隆を味方にしようとするが、
山岡景隆は拒絶して、瀬田橋と居城を焼いて甲賀に撤退する

 6月5日
 秀吉は備中高松城から撤兵し、山陽道、西国街道をひた走り京を目指した約200kmの「中国大返し」を行う

 秀吉は、京都への進路上にいる摂津衆の一人 中川清秀に「上様、殿様は危難を切り抜けられ膳所に下がっておられる
これに従う福富秀勝は比類なき功績を打ち立てた」という旨の偽の報告の手紙を出し、
摂津衆の多くを秀吉軍の味方につける
   6日に沼城(岡山城東方)、7日夕方に姫路城に着き、9日未明まで休養、9日正午に明石に到着
   10日朝に明石を出発し、夜には兵庫、11日夕方には尼崎、12日には富田に到着する

 6月5日
 光秀は、安土城に入って、信長が貯蔵した金銀財宝や名物品を全て家臣や味方に与え、
 佐和山城(滋賀県彦根市)、長浜城(滋賀県長浜市)を攻めて両城を占拠する

 光秀の娘と結婚していた信長の甥 織田信澄が、丹羽家家臣 上田重安によってらに自害に追い込まれる

 奈良 興福寺からは、仏敵 信長を倒したことで祝儀を受ける

 6月6日
 光秀は、上杉氏に援軍を依頼する

 6月7日
 光秀は、安土で勅使 吉田兼和(兼見)と面会し、誠仁親王から、朝敵だった信長を倒したことで進物など祝儀を受ける

 6月8日
 光秀は、安土城を発って京都に戻る

 6月9日
 光秀に応じた筒井順慶は、少数の配下を山城に派遣していたが、秘密裏に秀吉側に付くことを決めており、
居城の大和郡山城で籠城の支度を開始する

 6月10日
 光秀は、下鳥羽に出陣し、南殿寺に本陣を置き、男山に布陣していた兵を撤収させ、淀城勝竜寺城の修築に取り掛かる

 光秀は、筒井順慶に再度、出陣要請をするため洞ヶ峠まで赴いたが、約束の時間になっても順慶は現れなかった

 徳川家康の接待のために軍勢と離れていた神戸信孝(織田信孝)・丹羽長秀は、
本能寺の変により、四国の長宗我部征伐のために大坂に集結していた軍勢から多くの兵が逃亡した失ったが、
数千の兵をまとめて合流する

 6月12日
 秀吉は、富田に到着し、富田で軍議を開き、山崎を主戦場と想定した作戦を立てる

 両軍が、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで(現座の大山崎JCTのあたりで)対陣する

 羽柴軍は、中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、
池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾の西国街道に沿って布陣し、
秀吉の本陣は後方の宝積寺に置かれた

 明智軍は、御坊塚に光秀の本陣を、その前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)が、
河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った
 当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、
明智軍がその出口に蓋をした形となっている


 6月13日午後4時頃
 雨の中で対峙が続いていたところ
 秀吉方の中川隊が、高山隊の横に陣取ろうと天王山の山裾を横切って移動していたところを、伊勢貞興隊が襲い掛かり
それに呼応して、伊勢貞興隊の左側に布陣していた斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた

 中川・高山両隊は、斎藤・伊勢隊の猛攻を受けて陥るが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる

 天王山山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊が前方に仕掛け、
 中川・高山両隊の側面を突くべく、天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦し、一進一退の攻防が続いた

 淀川沿いを北上した池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる手勢が、密かに円明寺川を渡って津田信春を奇襲する

 津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出し混乱する

 池田隊に続くように、丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突く

 これにより、苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返す

 動揺が全軍に広がった明智軍は総崩れとなっていく

 御牧兼顕隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、羽柴軍を抑え壊滅する

 光秀は、戦線後方の勝竜寺城に退却する
 主力の斎藤隊も壊滅、松田政近、伊勢貞興らが討死する

 日没になり、羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、追撃は散発的なものになる


 勝竜寺城は平城で、大軍を収容できなく、明智軍は700余にまで減衰した

 光秀は、勝竜寺城を密かに脱出して坂本城を目指すが、小栗栖の藪(現在の「明智藪」)で土民の落ち武者狩りにより、
百姓 中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて重傷を負わされる

 重傷を負った光秀は、家臣 溝尾茂朝に介錯を頼んで自害する
 溝尾茂朝は、光秀の首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、坂本城まで持ち帰ったともいわれる


 6月14日
 秀吉は、勝竜寺城に入り体勢を整え、堀秀政を、交通路遮断と光秀の捜索に近江に派遣する

 安土城を預かっていた明智秀満は、山崎の戦いの敗戦を知って坂本城に移動する

 6月15日
 堀秀政は、光秀の後詰のために急遽、300余の兵で出兵した明智秀満の軍を、打出の浜で迎え撃ち撃破する

 坂本城は羽柴秀吉の大軍に包囲される

 明智秀満は、坂本城まで敗走し、光秀が所有する天下の名物・財宝を保護するために堀秀政に渡し、
光秀の妻 煕子、娘 倫子を介錯し、溝尾茂朝、明智光忠と共に自刃する

 中川・高山両隊は、亀山城に向かい、光秀の息子 明智光慶を自刃させ、亀山城を占拠する

 6月16日
 羽柴軍は京に入り、
 長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征・貞大父子、山崎片家らの降伏によって近江を平定する

 6月17日
 斎藤利三が、潜伏先の堅田で生け捕りにされ、六条河原で斬首磔刑に処された

 光秀の首は、本能寺にさらされる
 光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、暑さで著しく腐敗しており判別できなかったといわれる

 6月27日
 秀吉は、清洲会議を催して、領地再分配などを決め地位を固める

 7月19日
 最後に残った明智方の武将 武田元明が、丹羽長秀に攻められ自刃する
 京極高次は、妹または姉の竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏する

【明智光秀の人物像】

 光秀の出生や織田家仕官以前については不詳

 織田信長の家臣団のトップとして重用され、丹波国や滋賀郡など京の隣国の重要な地を治めた

 戦国時代一の戦術家で知将とされる
 本能寺の変での信長も、光秀の討ち入りと聞いて「是非に及ばず」とすぐに諦めたといわれる

 光秀は、交渉能力にも優れ、朝廷からも、室町幕府からも必要とされていた

 領国では、税を低く抑えたり、治水工事を行うなど、善政を行ったとされ、領国の各地で祀られている

 射撃の天才ともいわれ、戦術も豊かで、大半の戦で勝利している名将だった

 連歌会や茶の湯を催したり、教養も豊かで、才覚に優れた文武両道の名将だった

 家臣の全員を平等に大切にし、戦死者の葬儀においても侍大将も足軽も同等に処遇したといわれる

 当時としては珍しく、側室を持たなかった


 <辞世の句>
 後世の編纂物によるものともいわれる
   「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
   心しらぬ 人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」


 <あだ名>
 「金柑頭(きんかあたま)」と呼ばれていたといわれる
 (羽柴秀吉(豊臣秀吉)は「サル」と呼ばれていたといわれる)

【明智光秀ゆかりの地】

 <本能寺
 光秀が、信長の恐政を断った本能寺の変の後に、現在の地に移転されている


 <本能寺跡
 本能寺の変のときにあった本能寺の跡


 <谷性寺
 光秀が、谷性寺の不動明王を厚く敬ったといわれる
 光秀の首塚があり、光秀の無量顕彰と慰霊のために立てられた七重石塔がある


 <愛宕神社亀岡市)>
 亀山城から愛宕山への登山口にあり、元愛宕と称される


 <愛宕神社
 本能寺の変の数日前に参拝され、翌日には、愛宕五坊の一つ西坊威徳院で連歌会が行われた
 明智光秀が発句を詠み、脇句を威徳院 行祐法印、第三句を連歌師 里村紹巴が付けた
 100韻が詠まれ、書き留めた懐紙が神前に奉納されたといわれる


 <月輪寺
 本能寺の変の数日前、愛宕神社の参拝の後で参拝され、信長を攻めるかどうかをおみくじを引き占ったといわれる


 <勝竜寺城公園
 羽柴秀吉との山崎の戦いで、光秀が本陣を構えたところ
 娘 細川ガラシャが嫁いだ細川家の城
 城壁には鉄砲隊用の覗き穴がズラリとある


 <明智藪(伏見区醍醐・小栗栖)
 光秀が、落ち武者狩りの農民 中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて重傷を負わされたところ
 住宅地に接して先が見えないほど藪が生い茂っている
 光秀の祟りにより、さまざまな異変が起こったといわれる


 <大本 天恩郷
 光秀が築城した亀山城跡
 天守台の上に、光秀が手植えしたといわれる銀杏の木(2代目)が残っている


 <お墓>
 大津市坂本の西教寺に、光秀や明智秀満のお墓がある(南光坊 天海のお墓も歩いていける場所にある)
 高野山にも光秀のお墓がある
 岐阜県山県市にも光秀のお墓がある


 <首塚>
 知恩院の近くにある
 小栗栖で討たれた時に、「知恩院に葬ってくれ」と遺言されたといわれる


 <胴塚(伏見区)>
 ぶどう農家の木に隣接している


 <神蔵寺
 本堂(瑠璃殿)の前にある結縁の大賽銭箱
 光秀が、本能寺へ向かうために馬を返した場所にあった桜の幼木が、約400年後に大木となり、
その木材を利用して賽銭箱が作られ奉納されたもの


 <金地院
 明智門
 光秀が、母の菩提のため大徳寺内に建立した門で、その後、現在の地に移築される


 <妙心寺
 明智風呂(重要文化財)
 光秀の叔父で、塔頭の太嶺院(廃寺)の開基 密宗和尚(みつそうおしょう)が、光秀の菩提を弔うために創建する


 <瓜生山
 光秀が、2ヶ月余り駐在して延暦寺の監視にあったといわれるところ


 <小畑川
 光秀により作られたといわれる、嵐山一ノ堰から長岡京市と続く用水路


 <明智戻り岩
 亀岡市と大阪府池田を結ぶ国道423号(通称:摂丹街道)の法貴峠の旧道にある大きな岩
 光秀に係わる2つの伝承がある


 <南郷公園
 亀山城の外堀跡の南郷池を中心とした公園
 光秀の銅像が立てられている

【謀反理由】

 本能寺の変の謎は多く、様々な説の伝承があり、その後の山崎の戦いでの敗因も様々な要因がいわれるが、
 本能寺の変で、信長が光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦めたほどの戦略家・知将であった光秀は、
全て想定した上で、朝敵・仏敵となっていた信長の恐政を絶ち、秀吉家康に安定的な世の平定を託したといわれる


 <秀吉・家康黒幕説>
 秀吉家康は、朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知っており、すぐに行動をとれるよう準備していたといわれる
 家康には、信長に妻子を残虐された恨みがあった
 家康は、本能寺の変の当日に信長の死を知り、すぐに堺から自国 岡崎城(愛知県岡崎市)へ戻った

 中国地方にいた秀吉も翌日に知り、約2万人の大軍を約10日間で備中高松城(岡山市)から京都に戻し、
「主君信長の仇をとった武将」として絶対的な影響力と・権力を得ることに成功した

 秀吉との山崎の戦いにおいては、戦国一の戦術家で知将の光秀が、大山崎の町を戦火から守るために、
必勝の戦術を取らなかったといわれる

 光秀が、大山崎の町に禁制を出したのが、本能寺の変の翌日であり、
 秀吉とは、山崎の地で戦うことが、あらかじめ示し合わせてあったといわれる

 光秀は、山崎の戦いの前に、合戦場から少し離れた淀城・勝竜寺城の修築を行っており、秀吉の到着を待っていたといわれる


 <朝廷黒幕説>
 信長が、京都の寺院の焼き討ちを繰り返したり、
 正親町天皇に対して、元号を変えることを強要したり、
 信長が賜った従三位の官位が低いと激怒して、正倉院の財宝である香木「蘭奢待」を切り取ってしまったりし、
 神格化宣言をしていた信長を恐れていた

 本能寺の変の数日前に愛宕山の西坊威徳院で行われた連歌会に多くの公家などが参加し、歌で応援歌を贈ったといわれる
 なお、光秀は、朝廷に謀反支援の汚名を着せないために、一言もその旨を明かさなかったといわれる

 肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には、
本能寺の変の後、光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状があり、
その中で、光秀は本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている

 6月5日には、奈良 興福寺から、仏敵 信長を倒したことで祝儀を受ける
 6月7日には、安土城で勅使の吉田兼和(兼見)と面会し、誠仁親王からの朝敵 信長を倒したことで進物など祝儀を受ける


 <積年怨恨説>
 恩人でかつての主君だった朝倉義景との戦いを命じられたこと
 討ち取った朝倉義景の頭蓋骨で作られた盃で祝杯の酒を飲めと強要されたこと
 比叡山の焼き討ちの実行部隊にさせられ、僧侶・学僧・一般人・老人・児童まで皆殺しにしろと命じられたこと
 波多野秀治を投降させるために人質となっていた母親のことを無視され、殺されてしまったこと
 丹波・近江などの領地を没収され、毛利氏を倒したら毛利領である出雲と石見を与えるとされたこと
 長宗我部の仲介となって長宗我部氏を護って降伏の意志を示させたが、それを反故にされ、四国攻めを命じられたこと
 など


 <天下野望説>
 親友の細川幽斎・細川忠興父子への手紙には、50日ほどで世を平定した後に引退する旨が記されており、
天下をとる野望はなかったといわれる


 <足利義昭黒幕説>
 かつての主君 足利義昭の指令
 足利義昭に長年仕えていた細川藤孝が呼応していないこともあり、可能性はないといわれる

南光坊 天海

 天海は、徳川家康・徳川秀忠・徳川家光の3代に仕えた天台宗の僧侶
 突如として現れた天海が、家康の側近となり、徳川幕府の基盤を築く政策に深く関わり「黒衣の宰相」と称された

 光秀が、織田信長の恐政を絶った本能寺の変のあと、山崎の戦いにおいて、天海に姿を変えて、裏で統治をしたといわれる

 天海の出生は誰も知らず、年齢的にも光秀とほぼ変わらないといわれる


 <生存説>
 光秀が討たれたとされる小栗栖の領主だった公家は、その後、生き残った明智一族の世話をされたといわれる
 この地で、光秀を逃す裏工作がされたといわれる

 寛永年間(1624年〜1644年)の調査で、小栗栖に光秀を討ったとされる「百姓 中村長兵衛」を知る村人はいなかったとされる

 羽柴秀吉が光秀の首を確認したのが死後4日後で、首実検に出されたのは3体あり、どれも暑さで著しく腐敗していたといわれる

 明智本家の岐阜美山町には、影武者 荒木山城守行信が光秀の身代わりなったとの伝承がある

 光秀と共に殉死したとされる2人の家臣も、光秀の親友の細川家に仕えたとされ、当時の家伝に名前が残っているといわれる


 <本能寺の変
 本能寺の変があった6月2日の早朝には、家康は、信長の命で、重臣30名ほどと堺を出て、本能寺に向かっていた
 信長は、家康を暗殺するために、警戒させないように本能寺の警備を手薄にしていたとされる
 家康は、光秀から、事前に信長の自身の暗殺計画を聞かされており、平然と、京に向かって行ったとされる


 <徳川家康
 天海は、徳川家康のブレーンとなり、家康も頭が上がらず「黒衣の宰相」と称された

 天海が江戸で初めて家康と会ったとき、
 「初対面の二人であったが、まるで旧知の間柄のように、人を遠ざけて、密室で4時間も語り合った
 側近たちは、大御所(家康)が初対面の相手と人払いして面会をしたことがなく驚かされた」といわれる

 お江(信長の妹 お市の娘)の子 家光の乳母に、光秀の重臣 斎藤利三の娘 春日局が選ばれている
 本能寺の変で先陣を切った武将の娘 春日局が、信長の妹の孫となる将軍の乳母・養育係にされているのは、
普通ではあり得ないとされる


 <偏諱(かたいみな)>
 天海が仕えた家康の息子 2代将軍 徳川秀忠には、光秀の「秀」の字、3代将軍 徳川家光には光秀の「光」の字がもらわれている


 <天海の墓地>
 天海のお墓は、光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所にもある
 その側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)もある

 大津市坂本の西教寺に、光秀や明智秀満のお墓があり、南光坊 天海のお墓も歩いていける場所にある


 <延暦寺
 光秀は、本能寺の変山崎の戦いで、一族や家臣の多くが死んでしまい、その霊を供養するために延暦寺で出家したといわれる
 延暦寺も、仏敵 信長を討伐してくれた光秀を手厚く迎えたといわれる

 比叡山の松禅院に現存する石灯籠には、「慶長二十年願主光秀」と彫られており、
 1615年(皇紀2275)慶長20年に光秀が寄進したものといわれる

 天海は、家康から比叡山探題執行を任じられ、南光坊に住して延暦寺の再興に関わっている


 <日光東照宮>
 天海が建立させた家康の墓所 日光東照宮の入口の陽明門を守護する2対の木像の武士座像が着ている袴の紋は「桔梗紋」
 桔梗紋は、明智家の家紋である
 この武士像は、家康の干支である虎の毛皮の上に座っており、「家康を尻に敷いている」といわれる

 日光東照宮の門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている

 日光山輪王寺にある「徳川家康公・家光公・天海大僧正御影額」には、
2代 秀忠ではなく、天海が描かれているほどの大物人物だったといわれる


 <日光明智平>
 日光の華厳の滝が見える平地を、天海が「明智平」と名付けたといわれる
 あるいは、「明智平」と称されていたこの地を訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったといわれる


 <慈眼寺(じげんじ)>
 慈眼寺(右京区京北周山町)の釈迦堂には、明智光秀坐像(京都市指定登録文化財)と位牌が安置されている
 天海は、死後に朝廷から「慈眼大師」の号を追贈されている


 <慈眼大師 天海>
 天海は、死後に朝廷から「慈眼大師」の号を追贈されている
 大師号の諡号が贈られたのは、鎌倉時代以来の340年ぶりで、光秀が朝廷の脅威であった信長を葬った功績といわれる

 肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には、
光秀は、本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている


 <本徳寺(大阪府岸和田市)>
 光秀の肖像画を所蔵し、位牌が祀られている
 位牌の裏には「当寺開基慶長四己亥」と記されており、
本能寺の変の後の1599年(皇紀2259)慶長4年に、光秀が開基したことになる


 <童謡「かごめかごめ」>
 「つるとかめがすべった」は、敦賀と亀岡を納めた光秀が統治した(陰で操った)ことを示すといわれる
 日光東照宮御宝塔(御墓所)の前に置かれている「天を飛ぶ鶴」と「海を泳ぐ亀」のことであり、
家康の側近だった天海が統治した(陰で操った)ことを表しているといわれる

 「うしろのしょうめん だあれ」は、光秀の出身地(岐阜県可児市)から、天海が再興した日光東照宮の方向を向くと、
正反対一直線方向の後ろの正面には、光秀の肖像画を所蔵している本徳寺がある


 <春日局
 春日局は、明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘
 3代将軍 徳川家光の乳母となり、大きな権力を持ち江戸城大奥の基礎を築いた

 世の時勢的に、家康の主君でもあった信長を討った斎藤利三の娘を、家康が孫の乳母にすることはあり得ないといわれる
 また、駿府城にいた家康が、乳母の一女性から、将軍跡継ぎ問題の直訴を聞き入れ、江戸に赴き采配することもあり得ないといわれる
 さらに、武将の娘が、後水尾天皇と面談ができたのも、かつて朝廷と友好関係を築いていた明智光秀(天海)の計らいであるといわれる

 春日局や同僚の英勝院などが、天海(明智光秀)を深く信頼し、日頃から常に、江戸城内の吉凶を占ってもらったり、
家光の側室の安産祈願や、家光の子の誕生の名付けを頼んだなどといわれる

 明智光秀(天海)は、かつての重臣の斎藤利三の娘に、幕府の生活面(江戸城大奥)を統制させ、
共に江戸幕府の基礎を築き上げ、300年も続く安定した世の中の基盤を作り上げたといわれる

【その他】

 <明智光秀の征夷大将軍宣下>
 肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、
 本能寺の変の後、光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、
その中で光秀は変の後参内し、従三位・中将に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと記されている


 <愛宕威徳院での連歌会>
 本能寺の変の数日前、5月28日に、愛宕山の愛宕五坊の一つ 西坊威徳院で連歌会を開く
 天皇の側近などが集まり、本能寺の変のことを事前に知らされており応援の歌を贈ったとされる
 光秀は、これらの歌を神前に納め、成功祈願をしたといわれる

 「時は今 雨が下しる 五月哉」(光秀の発句)
   「時」は、明智の本家 土岐氏のこと
   「雨」は、天(あめ)のこと
   「土岐氏が今こそ天下をゆるがす五月なり」と意図される

 「水上まさる 庭の松山」(僧侶最高位だった西ノ坊行祐)
   「水上(みなかみ)」は、みんなの神で朝廷のこと
   「松」は、待つ意図
   「朝廷は活躍を待っている」と意図される

 「花落つる、流れの末をせきとめて」(連歌界の第一人者 里村紹巴)
   「花」は栄華を誇る信長のこと
   「花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい」と意図される

 「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」(光秀の旧知 大善院宥源)
   「信長が作った霞(暗闇)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ)」と意図される


 <明智家の桔梗紋>
 桔梗の花の形の紋
 安倍晴明の五芒星を「桔梗印」と称され、晴明神社では神紋とされている


 <坂本龍馬の坂本家>
 坂本城を守っていた明智左馬助の末裔が、土佐まで落ち延びたのが坂本家の由来と伝承されている
 坂本家の家紋は、明智家と同じ桔梗紋


【京都検定 第1回3級】

33.妙心寺について、次のことは正しいかどうか?
(ウ)浴室は、明智光秀を追善するために建立されたといわれ、「明智風呂」と称される

【京都検定 第3回3級】

【京都検定 第5回3級】

【京都検定 第10回3級】

【京都検定 第11回3級】

【京都検定 第13回3級】

【京都検定 第5回2級】

【京都検定 第8回2級】

【京都検定 第10回2級】

【京都検定 第13回2級】

【京都検定 第15回2級】

【京都検定 第12回1級】

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