後白河天皇(ごしらかわてんのう)(Goshirakawa Tennou)

後白河天皇:第77代天皇

生年:1127年(皇紀1787)大治2年9月11日
即位:1155年(皇紀1815)久寿2年8月23日
譲位:1158年(皇紀1818)保元3年9月5日
出家:1169年(皇紀1829)嘉応元年6月17日
崩御:1192年(皇紀1852)建久3年3月13日

諱:雅仁親王(まさひとしんのう)

鳥羽天皇の第4皇子 母親:藤原璋子(待賢門院

先代:近衛天皇
次代:二条天皇

皇后:藤原忻子、平滋子、藤原懿子
皇妃:原j子、藤原成子、高階栄子、他

別称:後白河上皇・後白河法皇

陵墓:法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、平安時代末期の第77代天皇

 鳥羽天皇の第4皇子で、近衛天皇の異母兄、崇徳上皇の同母弟にあたる

 在位はわずか3年だが、その後、5代天皇、37年にわたって院政を行う

 兄 崇徳上皇との戦い(保元の乱)、平治の乱、平家滅亡、鎌倉幕府成立などの動乱期に平清盛、木曽義仲、
源頼朝らと対応し、王朝の権威の存続を図った

 源頼朝は、後白河天皇のことを「日本一の大天狗(だいてんぐ)」と称している

 幼いときから今様を愛好し、熱心に稽古を続けていたといわれ、今様を集めた「梁塵秘抄」を編纂した

【後白河天皇の歴史・経緯】


【後白河天皇の陵墓】

 <法住寺陵
 東山区三十三間堂廻り町
 この地は、後白河上皇が、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇の5代に渡って院政を行い、
法住寺を中心とした院政御所「法住寺殿」があったところ

【後白河天皇のゆかりの地】

 <新熊野神社
 後白河上皇が、平清盛に命じて、紀州の熊野権現本宮の祭神を勧請して、法住寺殿(ほうじゅうじどの)の鎮守とされる

 <熊野若王子神社
 後白河上皇が、紀州の熊野権現本宮の祭神を勧請されたといわれる

 <住吉神社
 後白河天皇が、和歌の祭神を平安京に勧請するために、
勅命により、藤原俊成が、五条室町の邸内に摂津国 住吉より分祀して創建し、「新住吉神社」と称した

 <高松神明神社
 後白河天皇の内裏にもなった「高松殿」内に祀られていた鎮守社

 <新日吉神宮
 後白河上皇が、御所としていた法住寺殿の鎮守として、皇居守護の日吉山王七社の神々を、
近江の日吉大社から勧請して祀ったのが由来

 <法住寺
 後白河上皇の院政御所「法住寺殿」が営まれたときの中心となった寺院

 <三十三間堂(蓮華王院)
 後白河上皇の勅願を受けて、後白河上皇の広大な離宮「法住寺殿(院政の庁)」の一画に、
平清盛により私財が投じられて蓮華王院本堂が創建されたのが由来

 <今熊野観音寺
 後白河上皇が、観音さま夢告により持病の頭痛を平癒したといわれ、中風・頭痛平癒の観音とされる

 <長講堂
 後白河法皇の院御所「六条西洞院殿」の持仏堂が由来
 後白河法皇の臨終仏(りんじゅうぶつ)であったといわれる阿弥陀三尊像(重要文化財)を本尊として祀られている

 <延寿寺
 後白河上皇が、法皇となり、仙洞御所(せんとうごしょ)に営まれた仏堂が由来

 <寂光院
 後白河上皇が、隠棲していた建礼門院を訪ねてこられた

 <妙法院
 後白河法皇が第15世門主とされる

 <青龍寺
 後白河法皇が崩御されたとき、法然上人の弟子 見仏が、菩提回顧のために別時念仏六時礼讃を行った

 <高松殿跡
 後白河上皇が、即位され、内裏とされたところ

 <東三条殿跡
 近衛天皇や後白河天皇が里内裏とされる

【その他】

 <今様「梁塵秘抄」
 後白河法皇が撰者の歌謡集
 1180年(皇紀1840)治承4年頃の作

 <木造 後白河法皇像>
 法住寺
 運慶作
 5月3日の後白河法皇忌に併せて、後白河法皇像の御前立が、年に一度公開される

 <木造 後白河法皇像(重要文化財)>
 長講堂


【京都検定 第9回3級】

【京都検定 第2回2級】

【京都検定 第3回2級】

【京都検定 第4回2級】

【京都検定 第7回2級】

【京都検定 第9回2級】

【京都検定 第10回2級】

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