観世座(かんぜざ)

南北朝時代に創立された猿楽の芸能の一座

創始:観阿弥

 観世座(かんぜざ)は、南北朝時代に創立された猿楽芸能の一座

 観阿弥が、大和猿楽四座の一つの結崎座の演能グループを独立させて創立する

 現在は、能楽における流派の一つで、シテ方、小鼓方、大鼓方、太鼓方がある

【観世座の歴史・経緯】

【観世座】

 <結崎座
 南北朝時代
 観阿弥(三郎清次)が、20歳の頃、伊賀国名賀郡小波多で創始した猿楽の座
 その後、大和国結崎に移り、「結崎座」と称し、春日興福寺の余興を担当する
 大和猿楽四座の一つとされる

 <観世座>
 観阿弥が、式三番などの神事猿楽ではなく、
 メロディーの美しい大和猿楽に、田楽や曲舞の跳ねるように躍動するリズムを合わせた新しい芸能を生み、
熱狂的に受け入れられ、結崎座の中の演能チームを「観世座」として独立させた

 <観世流>
 江戸幕府からの俸禄がなくなり、能楽における流派の一つとなる
 シテ方、小鼓方、大鼓方、太鼓方がある

【観世座の歴代宗家】

 <流祖 観阿弥(三郎清次)>
 1333年(皇紀1993)元弘3年/正慶2年 - 1384年(皇紀2044)元中元年/至徳元年
 結崎座・観世座の創始者
 本名:清次(きよつぐ)、幼名:観世丸、通称:観世三郎、法名:観阿弥陀仏
 大和猿楽結崎座を立ちあげ春日興福寺の余興を担当
 結崎座の演能チームを「観世座」として独立させ、足利義満らの庇護を受けて活躍した

 <2世 世阿弥(三郎元清)>
 1363年(皇紀2023)正平18年/貞治2年 - 1443年(皇紀2103)嘉吉3年
 観阿弥の子
 夢幻能という独創的なスタイルを確立し、「風姿花伝」などの芸能論を著し、猿楽を大成する
 息子 元雅は若くして亡くなる

 <3世 音阿弥(三郎元重)>
 1398年(皇紀2058)応永5年 - 1467年(皇紀2127)応仁元年
 世阿弥の甥(世阿弥の弟 観世四郎の子)
 足利義教足利義政の庇護を受けて活躍した

 <4世 又三郎(正盛)>
 1429年(皇紀2089)永享元年 - 1470年(皇紀2130)文明2年
 音阿弥の子
 父親 音阿弥と共に、糺河原勧進能で活躍した

 <5世 三郎之重(祐賢)>
 生年不詳 - 1500年(皇紀2160)明応9年
 4世 又三郎の子とされている

 <6世 三郎元広(道見)>
 1472年(皇紀2132)文明4年 - 1523年(皇紀2183)大永3年
 5世 三郎之重の子
 金春禅鳳の娘を妻とし、次男 十郎に越智観世を再興させ、四男 宝生重勝(小宝生)を宝生家の養子とする

 <7世 三郎元忠(宗節)>
 1509年(皇紀2169)永正6年 - 1584年(皇紀2244)天正12年
 6世 三郎元広の子
 多くの伝書の書写・執筆に携わる
 浜松城在城時代からの徳川家康の庇護を受けて活躍した
 子供がなく、甥の左近元尚を養子とする

 <8世 左近元尚(三郎元尚)(元盛)>
 生年不詳 - 1576年(皇紀2236)天正4年
 7世 三郎元忠の甥(三郎元忠の弟 小宝生の子)
 三河で徳川家康に仕えるが早世する

 <9世 左近身愛(黒雪)>
 1566年(皇紀2226)永禄9年 - 1626年(皇紀2286)寛永3年
 8世 左近元尚の子
 幼少より浜松で徳川家康に仕えて、四座棟梁の筆頭として重んじられる

 <10世 左近重成>
 1614年(皇紀2274)慶長19年 - 1658年(皇紀2318)万治元年
 9世 左近身愛の子
 父親の9世が、駿府から高野山へ出家する事件を起こし、若くして大夫代行を勤める

 <11世 左近重清>
 1633年(皇紀2293)寛永10年 - 1687年(皇紀2347)貞享4年
 10世 左近重成の子
 長兄 三十郎重行の早世により後を嗣ぐ

 <12世 左門重賢>
 1658年(皇紀2318)万治元年 - 1746年(皇紀2406)延享3年
 宝生座の大夫 宝生重友の次男、11世 左近重清の養子
 29歳のとき、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り京観世にも影響を与える

 <13世 織部重記(滋章)>
 1666年(皇紀2326)寛文6年 - 1716年(皇紀2376)享保元年
 11世 左近重清の甥(左近重清の弟 結崎玄入の子)
 徳川綱吉の命で多くの稀曲を演じたほか、習い事の整備を行う

 <14世 織部清親>
 1693年(皇紀2353)元禄6年 - 1747年(皇紀2407)延享4年
 13世 織部重記の子
 世阿弥伝書の調査・転写を多く行う

 <15世 左近元章>
 1722年(皇紀2382)享保7年 - 1774年(皇紀2434)安永3年
 14世 織部清親の子
 観世流は徳川家重・徳川家治二代にわたる能師範を独占する
 「明和の改正」と称される全210番組の謡本の改訂、世阿弥伝書の調査、観世銕之丞家の創設など活躍する

 <16世 三十郎章学>
 1741年(皇紀2401)寛保元年 - 1792年(皇紀2452)寛政4年
 15世 左近元章の娘婿(9世 左近身愛の長男に始まる観世藤十郎家の出身)
 左近元章が死去したときには、病床にあり、1週間で大夫の地位を譲る

 <17世 織部清尚>
 1727年(皇紀2387)享保12年 - 1782年(皇紀2442)天明2年
 15世 左近元章の弟
 分家した観世銕之丞家初代
 病床にあった16世 三十郎章学に代わり大夫を嗣ぐ
 全210番組の覚え直しが必要となり不評だった明和改正謡本を廃する

 <18世 左近清充>
 1756年(皇紀2416)宝暦6年 - 1823年(皇紀2483)文政6年
 17世 織部清尚の子

 <19世 織部清興>
 1761年(皇紀2421)宝暦11年 - 1815年(皇紀2475)文化12年
 18世 左近清充の弟
 分家した観世銕之丞家を嗣ぎ2世となるが、兄 左近清充に代わり大夫を嗣ぐ

 <20世 左衛門清暘>
 1781年(皇紀2441)天明元年 - 1830年(皇紀2490)天保元年
 19世 織部清興の子
 宝生流が隆盛し、活躍の場が少なくなってしまう

 <21世 左近清長>
 1810年(皇紀2470)文化7年 - 1842年(皇紀2502)天保13年
 20世 左衛門清暘の子
 25日間の勧進能を興行する

 <22世 三十郎清孝>
 1837年(皇紀2497)天保8年 - 1888年(皇紀2548)明治21年
 21世 左近清長の子
 父親が早世して、当初は幼年のため銕之丞清済が大夫名代を勤める
 最後の観世大夫となる

 <23世 清廉>
 1867年(皇紀2527)慶応3年 - 1911年(皇紀2571)明治44年
 22世 三十郎清孝の子
 美声と評される
 朝鮮での演能、能楽堂への電灯設置など新しい試みを多く行なった

 <24世 元滋(左近)>
 1895年(皇紀2555)明治28年 - 1939年(皇紀2599)昭和14年
 23世 清廉の甥(清廉の弟 観世元義の子)
 流内の統一に尽力し、観世流の隆盛に寄与する

 <25世 元正(左近)>
 1930年(皇紀2590)昭和5年 - 1990年(皇紀2650)平成2年
 22世 三十郎清孝の曾孫
 晩年に左近を襲名する

 <26世 清和>
 1959年(皇紀2619)昭和34年 -
 25世 元正の子
 現在の宗家

【文化財】

 <寛正五年糺河原勧進猿楽図>
 観世文庫所蔵
 1464年(皇紀2124)寛正5年に、下鴨神社近くの賀茂川河原にて行われた糺河原勧進猿楽の様子が描かれたもの
 将軍 足利義政と正室 日野富子や、桟敷に並ぶ諸大名の配置からは当時の権力構造が分かる貴重な史料
 橋掛りが舞台の後方に描かれているなど、多くの点で貴重な史料 

【その他】

 <大和猿楽四座
 結崎座・外山座(とびざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまんいざ)
 猿楽の本芸である「翁(おきな)(式三番とも称する)」を演じることを主な務めとされる

 「座」とは、同業組合的な組織のこと
 翁を務める「長(おさ)」と称される長老が代表者となる
 座のメンバーは、春日社の若宮祭や、興福寺・多武峰寺の法会(ほうえ)のときに神事猿楽を勤めることを義務とされた

 <宗家>
 能楽の世界では家元を「宗家」と称される
 徳川幕府将軍から大夫が与えられた名称

 世号(「二十六世」など)は、出家名として大徳寺より贈られた号
 十五世の代より、出家をしなくても世号を名乗ることが許されるようになった

 <糺勧進能(ただすかんじんのう)
 1464年(皇紀2124)寛正5年
 下鴨神社の建物の造営や修理のために寄附を集める「勧進」として、近くの河原にて、
 将軍 足利義政と正室 日野富子や、桟敷に並ぶ諸大名の前で行われた猿楽興行

 2015年(皇紀2675)平成27年5月30日
 下鴨神社の式年遷宮を奉祝し、舞殿にて、約550年ぶりに糺勧進能行われる
 演目は「賀茂」
 シテ方の観世流26世宗家 観世清和さんらにより奉納される
 史料に基づき、本殿から舞台中央へ真っ直ぐに橋掛りを架け、
 賀茂の祭神が舞台奥の本殿より立ち現れ、また本殿へと戻っていく様子が表される


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