方丈記(ほうじょうき)(Houjyouki)

著者:鴨長明

時期:鎌倉時代初期

タイプ:随筆

日本三大随筆の一つ

隠棲文学の祖

 方丈記(ほうじょうき)は、鎌倉時代初期に鴨長明が著した随筆

 1212年(皇紀1872)建暦2年に完成したといわれる

 清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」と並んで日本三大随筆とされる

 漢字と片仮名、漢字と平仮名の混ざった和漢混交文体で書かれている

 鴨長明が、晩年、日野山に方丈(一丈四方)の庵を創建し、そこで記したことから「方丈記」と名付けられた

 隠棲文学の祖ともされる

 乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論でもあり、鴨長明無常観の文学といわれる
 冒頭で移り行くもののはかなさが語られ、
 前半には、当時の災厄について記され、
 後半には、自らの草庵での生活が語られる

【方丈記の本文】

 <冒頭>
 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず
 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし

 <方丈の庵(日野山の生活)の段>
 もし、日うららかなれば、嶺によじ上りて、遙かに故郷の空を望み、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る
 勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし
 歩み煩ひなく、こころ遠くいたる時は、これより峯つづき炭山(すみやま)を越え、笠取(かさとり)を過ぎ、
あるいは岩間に詣で、あるは石山をおがむ
 もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉丸の翁が跡を弔ひ、田上川を渡りて、猿丸太夫が墓をたづぬ
 歸るさには、をりにつけつつ、櫻を狩り、紅葉(もみじ)をもとめ、蕨を折り、木の實を拾ひて、
かつは佛に奉り、かつは家土産(いえづと)にす

 <結び>
 干時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす

【方丈記に記されている主な災厄】

 方丈記の前半には、天変地異に関することが記され、人の世のはかなさが描かれている

 <安元の大火>
 1177年(皇紀1837)安元3年4月28日午後8時頃
 現在の京都駅付近から、舞人の宿屋から火の不始末で出火
 火は、またたく間に都の西北に向かって燃え広がり、朱雀門大極殿・大学寮・民部省など、公卿邸が16軒、
民家の3分の1が一夜のうちに焼失した
 死者は数10人

 <治承の竜巻>
 1180年(皇紀1840)治承4年4月
 中御門大路と東京極大路の交差点付近(現在の京都市歴史資料館あたり)で大きな辻風が発生
 竜巻は、市街地を南南西に向かって走り抜け、現在の東本願寺あたりで消えたといわれる
 家財道具や檜皮・葺板なども吹き飛ばされたといわれる

 <養和の大飢饉>
 1181年(皇紀1841)養和元年から2年間
 朝廷では、いろいろな加持祈祷が行われたが効果もなく、物価が高騰し、疫病が広まったといわれる
 仁和寺の隆暁法印が、死者の額に「阿」の字を書いて供養して歩き、42,300人にもおよんだといわれる

 源頼朝や木曽義仲の挙兵や、
 1180年(皇紀1840)治承4年6月の平氏の福原遷都によって都への貢米が行われなくなったことも一因とされる

 <元暦の大地震>
 1185年(皇紀1845)元暦2年7月9日
 余震が3ヶ月も続いたといわれる

【その他】

 <方丈の庵跡
 京都市伏見区日野船尾
 鴨長明が、方一丈(約3m)の小庵を営み、「方丈記」を著したところといわれる跡地


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