角屋(すみや)は、島原花屋町通下ルにある揚屋の遺構
島原の創建当初から建物と家督が維持され続けている、揚屋建築の唯一の遺構
揚屋には、太夫・芸妓などはおらず、置屋から芸妓等を呼んで宴席を設けている
角屋は、揚屋建築の特徴が備わっている
木造2階建て
揚屋町の通りに東面して建つ
建物は、通りに面する表棟と、中庭を挟んで建つ奥棟からなり、玄関部分でつながってあり1棟となっている
<大座敷>
室内は、蝋燭を灯す燭台や灯油の行灯が用いられていたため、真っ黒に煤けている
<広庭>
大座敷に前には、広い庭がある
枝の長い松「臥龍松(がりょうのまつ)」が生育していたが枯れてしまい、現在は2代目
大広間から見える臥龍松を題材にした美術作品が多く残されている
<お茶席>
揚屋の広庭には、必ずお茶席が立てられている
<台所>
寺院の庫裏と同じ規模の台所があり、料理が作られる
<数寄屋造>
七宝の釘隠しや青貝の螺鈿・繊細な障子桟などの意匠となっている
<格子造り>
表棟は、京町家の格子造りになっており、間口31.5mもある
<壁>
赤壁・白漆喰壁、黄色の大津磨き壁・浅葱色の九条土壁・淡い茶褐色の聚楽土壁など
社寺の書院・客殿に使用されている高級壁が使われている
<表棟1階>
中央やや南寄りに入口がある
入口を入ると、狭い中庭を介して正面に内玄関、右手に玄関がある
入口の左手(南)に男部屋、右手(北)に仲居部屋、女部屋などがある
最も北には天井を網代とした「網代の間」がある
<奥棟1階>
内玄関を入り、通り土間、板の間、台所、帳場、茶室などがある
<表棟2階>
北から南へ「緞子の間(どんすのま)」「翠簾口の間(みすぐちのま)」「翠簾の間」「扇の間」がある
<奥棟2階>
「檜垣の間」、装飾に青貝を用いた「青貝の間」などがあり、「青貝の間」には露台(バルコニー)もある
<国の重要文化財>
島原の創建当初から建物と家督が維持され続けている、揚屋建築の唯一の遺構
1952年(皇紀2612)昭和27年に指定される
曲木亭、茶室、待合、東奥蔵、西奥蔵、台所蔵、棟札5枚、板絵図1枚、古図2枚、屋舗売渡状1枚が
「附(つけたり)」として指定されている
<屏風「紅白梅図」(重要文化財)>
与謝蕪村の筆
江戸時代中期には、島原でも俳諧が盛んだった
七代目角屋当(俳名徳屋)は、与謝蕪村を師として招いていた
<襖絵>
円山応挙、石田幽汀などの襖絵も残っている
<送り込み制>
太夫や芸妓を抱えて揚屋に派遣する置屋と、
置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、お客さんに歌舞音曲の遊宴を楽しんでもらう揚屋との分業制
現在の花街に、「お茶屋(宴席)」と「屋形(芸妓・舞妓を抱える店)」の制度として残る
吉原などの遊廓は、自ら娼妓を抱えて歓楽のみの営業を行っていたことから「居稼ぎ制」と称される
<揚屋(あげや)>
角屋は、置屋ではなく揚屋だった
置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、料理を出して遊宴を楽しんでもらう、現在の料亭、料理屋にあたる
江戸時代には、民間の宴会場、お茶会や句会なども行われて、文化サロンとなっていた
揚屋建築には、大座敷に面した広庭にお茶席があり、大規模な台所あった
間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階が台所や居住部分とされて、
二階を主たる座敷として、お客さんを二階に揚げることから「揚屋」と称されるようになった
1757年(皇紀2417)宝暦7年以降
揚屋は、島原と大坂の新町のみとなる
隣接地が買い増され、ほとんどが一階を主たる座敷にして大座敷や広庭を備えるようになる
揚屋には「一見さん」は入れず、支払いは「つけ(掛売り)」のみで、現金決済は行われていなかった
<お茶屋業>
角屋は、1872年(皇紀2532)明治5年までは、揚屋として営業されていたが、
それ以降は、お茶屋業として、「松の間」において宴会業務が行われていた
<かしの式>
太夫が一人一人、お客と対面する「顔見せ」の儀式
太夫は、言葉をしゃべる事は許されず、仕種と立ち振る舞いとまなざしでアピールする
<勤王の志士>
幕末維新
木戸孝允・西郷隆盛・坂本龍馬・久坂玄瑞などの勤王の志士が密議を交わしたり、
豪商からの資金調達のために接待に使用されていた
<芹沢鴨の刀傷>
1863年(皇紀2523)文久3年6月
新選組も、角屋での遊興を楽しんだおり、芹沢鴨が暴れ、そのときの刀傷が残されている
<角屋もてなしの文化美術館>
1998年(皇紀2658)平成10年4月の開館
角屋の建物と所蔵美術品等の展示・公開が行われている
所蔵品は約1万1千点以上ある
<輪違屋>
同じ島原にある置屋・お茶屋
現在全国で唯一、太夫をかかえている