御土居(おどい)(Odoi)


創建年:1591年(皇紀2251)天正19年1月

創建者:豊臣秀吉

範囲:東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峯、南は九条、南北約8.5km、東西約3.5km、総延長約24km

大きさ:高さ約5m、底辺幅約10m

用途:軍事的城塞、氾濫防止

国の史跡(現存跡9ヵ所)

旧称:京廻ノ堤(きょうまわりのつつみ)

 御土居(おどい)は、豊臣秀吉が都市改造政策の一つとして、京都の周囲に築かれた土塁
 日本で最初の城壁を兼ね、鴨川の氾濫を防いだといわれる

 御土居により洛中・洛外が区別されるようになる

 北野天満宮の西側の土堤は原型に近く残っている

【御土居の歴史・経緯】


【御土居】

 東は鴨川、西は紙屋川まで、北は鷹峯、南は九条まで、総延長約24km
 南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の範囲

 高さ約5m、底辺幅約20m、頂部幅約5mの台形状
 外側に堀があり、幅約10数m、最深約4m

 御土居の上には、竹が植えられていた

 御土居の内部から石仏が出土することがある

京の七口

 御土居から洛外に出るところ
 御土居の建造された当時には、10ヶ所の口があったといわれるが、詳細は不明
 鞍馬口、丹波口などの地名が残る

【御土居の目的】

 豊臣秀吉が御土居を建造した目的を記した文献はないといわれている

 外側の堀と土塁で、城塞の役割も果たしたとされる
 櫓(やぐら)や、出入口の関所などは設けられていなかった

 御土居の東側の鴨川が頻繁に氾濫し、水が洛中に流入するのを防ぐ役割も果たした

 洛中周辺の延暦寺八坂神社などの社寺が大きな影響力を持っていたため、
御土居により出入りを制限することにより、これらの勢力を削ろうとしたといわれる
 また、洛中の社寺は、東側の寺町通に集約された

 都市部だけでなく、田畑を含んで広く都を取り囲み、安泰を保障することで、
 上京と下京の惣構(そうがまえ)を解体して、豊臣秀吉の支配を誇示したといわれる


【御土居の跡】

 1930年(皇紀2590)昭和5年の史跡指定

 <中京区西ノ京原町>
 西側の中央部の一部
 御土居上に、市五郎神社の社殿が建つ

 <北区平野鳥居前町>
 西側の中央部の一部
 表面は整形されている

 <北区紫野西土居町>
 西側の北部の一部

 <北区鷹峯旧土居町3番地>
 御土居史跡公園
 西側の北部の一部
 石段などが敷設されてしまっている

 <北区鷹峯旧土居町2番地>
 御土居の跡がそのままひとつの「町」となっている
 北西の隅の屈曲点にあたる

 <北区大宮土居町>
 北側を囲った一部
 保存状態が最も良く、堀の窪地も残っている
 東西の延長約250m、底部の幅約20m、堀底からの高さ最高約7m

 <北区紫竹上長目町・堀川町>
 加茂川中学校の北隣
 北東の隅の屈曲点にあたる
 史跡の指定後に、堀川通が貫通して御土居が分断されてしまっている

 <上京区寺町広小路上ル北之辺町>
 東側を囲った部分
 廬山寺に碑が建立されている


 1965年(皇紀2625)昭和40年の史跡指定

 <上京区馬喰町>
 北野天満宮境内西側
 西側の北部の一部
 ほぼ原型に近く残っている
 紙屋川が堀の役割を果たしていた


 史跡指定以外

 <中京区西ノ京中保町>
 北野中学校校庭
 西側の北部の一部
 土塁の北に堀があり、堀跡は、現在、プールとされている

 <北区大宮西脇台町>
 大宮交通公園
 北側を囲った一部
 堀跡は、地下に埋没している

 <北区鷹峯上ノ町>
 西側を囲っていた一部
 個人宅の庭園の築山として利用されている


【京都検定 第8回3級】

【京都検定 第9回3級】

【京都検定 第10回3級】

【京都検定 第11回3級】

【京都検定 第5回2級】

【京都検定 第8回2級】

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【京都検定 第8回1級】


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