応仁の乱(おうにんのらん)(War of Ounin)

期間:1467年(皇紀2127)応仁元年〜1477年(皇紀2137)文明9年

 応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代8代将軍 足利義政のときに起こった内乱

 幕府管領の細川勝元(ほそかわかつもと)と、山名持豊(山名宗全(やまなそうぜん)の対立
 有力守護大名の畠山氏(はたけやまし)と、斯波氏(しばし)の両家に起こった家督争い
 8代将軍 足利義政の実弟 足利義視と、正室 日野富子との足利将軍家の後継争い
 などが複雑に絡み合い、九州など一部の地方を除き争いが全国に拡大していく

 1467年(皇紀2127)文正2年1月18日
 上御霊神社で最初の戦いが起こる

 1467年(皇紀2127)応仁元年5月26日
 全面戦争の火ぷたが切られ、京都には、25万もの兵が集まり、
10年間の戦いで、京都市街地は焼け野原となり、多くの文化財・伝統文化・生活文化も失われた

 応仁の乱により、下剋上(げこくじょう)が起こり戦国大名が生まれ「戦国時代」に突入していく

 東軍西軍
幕府管領細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん)
畠山家畠山政長(はたけやままさなが)畠山義就(はたけやまよしなり)
斯波家斯波義敏(しばよしとし)斯波義廉(しばよしかど)
将軍家足利義視(あしかがよしみ)
   (足利義政の実弟)
足利義政の正室 日野富子
(足利義尚(あしかがよしひさ)の母親)

【応仁の乱までの経緯】

【文正の政変】

 <斯波家の家督>
 1466年(皇紀2126)文正元年7月
 足利義政は、伊勢貞親、季瓊真蘂らの進言で斯波家(しばけ)の家督を、
 山名宗全を後盾にする斯波義廉(しばよしかど)から取り上げ、
 細川勝元を後盾にする斯波義敏(しばよしとし)に与える

 斯波義廉と縁戚関係にあった山名宗全は、一色義直や土岐成頼らとともに斯波義廉を支持し、
細川勝元も大内政弘らとともに斯波義廉の支持に回る

 伊勢貞親は、足利義視の謀反の噂を流すが、足利義視が細川勝元を頼って無実を訴え、
伊勢貞親は讒訴の罪を問わて失脚し近江へ逃れる
 また、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも京都から追放され、
山名宗全と細川勝元が協力した「文正の政変」となる

【御霊合戦】

 <畠山家総領>
 1467年(皇紀2127)文正2年1月2日
 細川勝元の策謀によって足利義政により追放された畠山義就が、山名宗全を頼って足利義政に復権を願い出る
 足利義政は、花の御所に畠山義就を招いて赦免し、畠山義就の畠山家総領を認めて、
畠山政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを命じる
 畠山政長は、これに反発して管領を辞任、山名宗全派の斯波義廉が後任の管領に就任する

 細川勝元は、足利義政から畠山義就の追討令を出させようとするが、
正室 日野富子が察知して山名宗全に伝え失敗する
 山名宗全は、自邸の周辺に同盟守護大名の兵を集め、御所花の御所を囲み、
足利義政に畠山政長や細川勝元らの追放を願い出る

 足利義政は、細川勝元の追放を認めなかったが、畠山義就による畠山政長への攻撃を認める
 畠山政長は、細川勝元に援軍を求めたが、時期尚早として断わられる

 1月18日
 畠山政長は、明け渡しを命じられた自邸に火を放ち、兵約2千を率いて上御霊神社に陣を敷く
 足利義政は、畠山家の争いへの関わりを禁じるが、山名宗全は、それに逆らい畠山義就に加勢する
 細川勝元は、足利義政に従い静観を保つ

 畠山義就は、釈迦堂から兵約3千で出兵し、斯波義廉、山名政豊、朝倉孝景らが加勢する
 上御霊神社での戦いは夕刻まで続き、畠山政長は、夜半に上御霊社に火をかけ逃走する

 <応仁の乱勃発>
 5月26日(3月に年号が応仁元年に変わる)
 細川勝元は、北陸に逃れていた畠山政長と全国一派を結集し、今出川邸の自邸に本陣を置き、
 花の御所を制して、将軍、皇室らを確保し室町亭に迎える

 山名宗全は、五辻通大宮東に本陣を置く

 6月
 細川勝元は、足利義政に要請し、牙旗を授与され官軍の体裁を整える

 「応仁記」によれば、
 両軍の位置関係から細川勝元派を「東軍」、山名宗全派を「西軍」と称される
 兵力は、東軍が16万、西軍が11万以上であったといわれる

 相国寺の戦い
 激戦で両軍に多くの死傷者が出たが勝敗は決まらなかった

 8月29日
 足利義視が、東軍を出て、伊勢国の北畠教具の元に去る
 その後、足利義視の後見人だった細川勝元が、足利義尚の将軍擁立に転じたため、比叡山に出家する

 11月23日
 山名宗全は、比叡山に使いを出して足利義視を迎え入れ「新将軍」に奉り上げて幕府軍の体裁を整え東軍に対抗する

 1469年(皇紀2129)文明元年頃
 戦火により京都市街地は焼け野原と化して荒廃する
 上洛していた守護大名は、領国にまで戦乱が拡大し、京都での戦いに専念できなくなる

 1473年(皇紀2133)文明5年
 3月18日 山名宗全が死去
 5月11日 細川勝元が死去
 12月19日 足利義政が、足利義尚に将軍職を譲り隠居する

 1474年(皇紀2134)文明6年4月3日
 山名宗全の息子 山名政豊と、細川勝元の息子 細川政元の間に和睦が成立する

 1477年(皇紀2137)文明9年11月11日
 西軍が、周防国に撤収し、京都での戦いは収まる

 11月20日
 幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され10年に及ぶ「応仁の乱」の幕が降ろされる

【応仁の乱の因果】

 <上御霊神社北野天満宮
 京都の歴史上、最大の災いとなった応仁の乱の発端の地となった、東軍が陣を張った上御霊神社は、
早良親王や井上内親王など、12柱の御霊(強い怨霊)を鎮めるために祀られたのが由来


 西軍が陣を張った西陣には、菅原道真の怨霊を鎮めるために創建された北野天満宮がある

【その他】

 <西陣
 西軍の山名宗全(やまなそうぜん)が陣を張った地域を「西陣」と称するようになった


【京都検定 第1回3級】

39.西陣織について、次のことは正しいか?
(エ)「西陣」の名前は、応仁の乱で山名宗金らの西軍が陣地を敷いたことから名付けられた

【京都検定 第4回3級】

【京都検定 第5回3級】

【京都検定 第6回3級】

【京都検定 第3回1級】

【京都検定 第5回1級】

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