豊臣秀吉の都市改造政策(としかいぞうせいさく)

時代:桃山時代

 豊臣秀吉の都市改造政策(としかいぞうせいさく)は、関白になった豊臣秀吉は、京都を実質的に支配し、
多くの都市改造を行い、応仁の乱で大半が焼失した京都を復興させ、現在の京都の基盤を築いた政策

【豊臣秀吉の主な都市改造政策】

 <聚楽第(じゅらくだい)の建造
 平安京大内裏跡の内野に天守閣を持つ壮大な屋敷を創建する
 北は一条通、南は丸太通、東は堀川通、西は千本通の広大な敷地を持っていた
 いたるところに金箔が貼られた豪華爛漫な建物で、堀が巡らされた城郭だったといわれる

 1586年(皇紀2246)天正14年2月
 用材を家臣たちに手配させ、庭石や樹木は社寺から集め、聚楽第の造営を始める
 1587年(皇紀2247)天正15年9月に完成
 豊臣秀吉が、大坂城から聚楽第に移り住み政庁とする
 1588年(皇紀2248)天正16年4月
 後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の聚楽行幸が行われる

 <武家町の建設>
 聚楽第の周辺には、大名屋敷が造られた

 <公家町の建設>
 内裏が修理され、周辺には、天皇家と公家たちが住む町が造られた

 <方広寺大仏の建造>
 1586年(皇紀2246)天正14年
 奈良東大寺に倣った大仏殿の造営を開始する
 東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったといわれる
 1596年(皇紀2256)慶長元年に地震により消失
 1611年(皇紀2271)慶長16年に豊臣秀頼により再建されるが、再び消失する

 方広寺大仏殿の再建資材運搬のために、角倉了以によって、高瀬川が開削される
 水深は数10cm程度と浅く、底が平らで喫水の少ない「高瀬舟」と称される小舟で資材が運ばれた

 <粟田口
 1590年(皇紀2250)天正18年
 三条大橋を架設し、東海道の玄関口とする

 <寺町の造成
 1590年(皇紀2250)天正18年
 洛中に散在していた寺院を、強制的に一つの通りに集め、「寺町通(てらまちどおり)」と称されるようになる
 社寺の復興にも大きな支援が行われる
 寺町通の多くの寺院の境内が、縁日や各種の見世物や催し物が行われる場所として利用されるようになり、
 寺町通の西側には、仏師、石塔屋、位牌屋、数珠屋、筆屋、扇屋、紙表具屋、白粉屋、人形屋などが
立ち並び繁栄した

 <短冊形町割>
 1590年(皇紀2250)天正18年
 ほぼ正方形の区画であった平安京の条坊の一町の間に南北に道を通して短冊形とした町割りを行い、
土地の有効活用を図った
 戦国時代の荒廃した上京と下京の広大な隙間を埋めるため、京都市街地の南北に新しい道路を何本も貫通させる

 <本願寺の移転
 1591年(皇紀2251)天正19年
 大坂天満の本願寺から、現在の地に寺地を寄進し移転させ、京都本願寺として御影堂と阿弥陀堂とが完成する

 <御土居(おどい)の築造
 1591年(皇紀2251)天正19年
 周囲約23km(5里26町)の区域を、土手、石垣で取り囲み、都の防備と、鴨川の氾濫対策を行った
 土塁の高さは、約3.6mから5.4m、奥行きは約18mから20数mもあった
 「京廻ノ堤(きょうまわりのつつみ)」と称される
 東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれる
 京の中(洛中)と外(洛外)を分ける境にもなる
 洛外とは、各街道につながる「京の七口」が出入口となる

 <地子(地代)永代免除>
 1591年(皇紀2251)天正19年9月
 洛中の町々に対して、地子(地代)を永代免除する法令が出される
 家屋の敷地は、原則的に寺社や公家の本所の所領であって、市民はその地所の上に建てられた家屋だけを所有していた
 土地の本所である寺社や公家に対しては、その替え地を西院や吉祥院などの京都郊外に与えられた
 この政策により、京都の土地は惣町(町連合体)の共有財産として与えられ、町組織が確立していく


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