角倉了以(すみのくらりょうい)(Suminokura Ryoui)

江戸時代初期の豪商

生年:1554年(皇紀2214)天文23年
没年:1614年(皇紀2274)慶長19年7月12日

出身:嵯峨
父親:吉田宗桂(医者)
お墓:二尊院(にそんいん)

敬称:水運の父

 角倉了以(すみのくらりょうい)は、安土桃山時代江戸時代初期の豪商

 朱印船(角倉船)による安南国などとの海外貿易や、土木技術と工夫を駆使して大堰川(保津川)高瀬川などの
河川疎通事業を行った


 琵琶湖疏水の設計者である田邊朔郎と共に「水運の父」とされる

【角倉了以の歴史・経緯】


【角倉家】

 角倉家の本姓は「吉田」
 「角倉」は、営んでいた土倉業(質屋)から付けられたといわれる

 近江国犬上郡吉田村の出身とされ、室町時代中期に上洛し、室町幕府お抱えの医者を勤める

 その後、医業で得た財産を元に土倉業を営む

 角倉了以の祖父 吉田宗忠は、土倉業を長男に、次男 吉田宗桂に医者を継がせる

 医者 吉田宗桂の元に生まれた角倉了以は、医業を弟に譲り、祖父からの土倉業(質屋)の財産で、
巨大な高利貸資本を蓄積していく

 角倉了以の死去の後
 1614年(皇紀2274)慶長19年10月
 大坂冬の陣では徳川家康に従い、兵器・食糧の調達運搬に尽力する

 安南(現在のベトナム)・ルソンへの貿易船角倉船は、角倉素庵に継がれ、朱印船旅船が16回行われる

 1617年(皇紀2277)元和3年
 江戸城改築のときに、富士山からの材木伐出にあたり、政商としての地位を確立する

 角倉家は、茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに、「京の三長者」といわれる権勢を誇っていた

 明治維新
 角倉家は高瀬川支配を罷免され、京都府に移管される


【ゆかりの地】

 <角倉氏邸跡
 木屋町通二条下ル西側一之舟入町

 <角倉了以別邸跡
 木屋町通二条下ル東側東生洲町
 現在は、高瀬川二条苑になっている

 <角倉了以翁顕彰碑
 高瀬川の川沿い木屋町通に立つ顕彰碑

 <二尊院
 角倉了以・角倉素庵父子のお墓がある

 <千光寺
 角倉了以が建立する
 保津川(大堰川)を望む大悲閣に角倉了以の木像が安置されている

 <瑞泉寺
 角倉了以が、豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺院


【開削した河川】

 <保津川(大堰川)
 1605年(皇紀2265)慶長10年
 保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数km上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得る

 1606年(皇紀2266)慶長11年
 開削を始めて6カ月後に竣工させる
 工事に当たっては、角倉了以も自ら石割斧を振るって開削にあたったといわれる

 保津峡の開削によって、丹波地方の農作物が船によって嵐山まで運ばれるようになり、嵐山近辺は商人の往来で賑わい
発展したと記録されている
 丹波の材木も筏で運送されるようになり、険しい山道を人馬で搬送していたことに比べ、格段に利便性がよくなった

 角倉了以は、莫大な資金を投じて開削したが、開削後の水運による収益をすべて独占する事で、さらなる利益を得たとされる

 角倉了以は、行舟術にすぐれた舟夫18人を嵯峨に招いて、新しい航行技術を発展させた
 舟夫の宿泊は、当初、弘源寺であったが、大雄寺の荒れ地を開拓し舟夫の居住地を作り、
現在は右京区嵯峨角倉町と地名に残っている

 <高瀬川
 角倉了以は、方広寺大仏殿再建のための資材輸送を命じられ、淀川の上流で調達した木材を筏にして、
鴨川を遡って三条まで運び込んだ
 このとき、鴨川を遡る事が難しいことを知り、京と伏見の間に運河を造るために高瀬川の開削をしたといわれる

 1611年(皇紀2271)慶長16年
 第一次工事が開始され、息子の角倉素庵も協力した

 1614年(皇紀2274)慶長19年
 工事が完成する

 高度な土木が用いられ、水が濁らないよう樋門や汚水抜きの溝なども造られた

 開削には7万5千両を費やしたとされたが、角倉家には年々1万両以上納められたといわれる


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