藤原道長(ふじわらのみちなが)(Michinaga Fujiwara)

平安時代中期の公卿

生年:966年(皇紀1626)康保3年
没年:1027年(皇紀1687)万寿4年12月4日
享年:62

名:道長
法号:行観、後に、行覚

父親:藤原兼家
五男
母親:藤原時姫(藤原中正の娘)

官位:従一位、摂政、太政大臣、准三后

別称:御堂関白、法成寺入道前関白太政大臣

 藤原道長(ふじわらのみちなが)は、平安時代中期の藤原北家御堂流の公卿

 父親 藤原兼家は三男、道長も五男であり、目立たない存在だったが、摂関まで昇り、藤原北家の全盛期を築いた

 娘の3人を天皇の中宮にし、三后(皇后・皇太后・太皇太后)を全て自分の娘で占めた(一家三后)

 後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる

 晩年、財力をつぎ込み壮大な法成寺の建立に精力を傾け、「御堂関白」とも称されるようになる

 摂関政治の崩壊後も、道長の子孫(御堂流)のみが摂関職を代々世襲し、五摂家と松殿家・醍醐家の諸家、
中御門流・御子左流・花山院流の諸流などを輩出する

【藤原道長の歴史・経緯】

【藤原道長】

 <日記御堂関白記」(国宝)(世界遺産
 道長の33歳から56歳にかけての日記
 自筆本14巻、書写本12巻が陽明文庫に保存されている
 現存の自筆日記としては最古のものとされる

 <家集「御堂関白集」>

 <歌道
 拾遺和歌集から、勅撰入集は43首
 和歌より漢詩の方を得意としていたといわれる

 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
 (この世は私のためにあるようなものだ。満月は欠けていくが、私の思うようにならないことは一つもない)

【藤原道長ゆかりの地】

 <平等院
 道長の別荘だった宇治殿を、長男の藤原頼通が寺院にした

 <法成寺
 晩年の道長が、自邸である土御門殿の東に、精力を傾けて建立し、藤原氏の氏寺とした壮大な寺院
 藤原氏の財力がつぎ込まれて阿弥陀堂(無量寿院)など大伽藍が造営され、道長は「御堂関白」と称されるようになった
 「極楽浄土のこのよにあらはれける」(大鏡)と、その壮麗さが謳われた

 <法性寺
 左大臣 藤原忠平が、公家恒例被行脚読経の法相宗の寺院として建立し、藤原氏の氏寺として栄えた寺院
 道長が40才にあたって、五大明王を安置する五大堂を建立した

 <同聚院
 東福寺塔頭の一つ  文渓元作が、法性寺に、道長が建立した五大堂の遺跡に創建する

 <誠心院
 道長が、娘の上東門院に頼まれて、上東門院に仕えていた和泉式部のために、法成寺内の東北院の中に庵を建てて与えたのが由来
 その庵は、後に「小御堂(こみどう)」と称される

【その他】

 <土御門殿>
 道長の平安京の中の数ヶ所の豪邸の中でも、最も豪華な屋敷
 道長に嫁いだ源倫子の父親 源雅信が、娘の結婚のときに道長を住まわせ、源雅信の死後に道長に継承されてその邸宅となった
 当初は1町の規模から、拡張が行われた

 <源氏物語
 主人公の光源氏(ひかるげんじ)は、道長をモデルにしているといわれる
 道長は、「源氏物語」の第一読者で、著者 紫式部の局にやってきては原稿の催促をしていたといわれる

 <一家立三后(一家三后)」>
 三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて道長の娘で占めた
  長女 藤原彰子(上東門院):一条天皇の皇后(号は中宮)
  次女 藤原妍子:三条天皇の皇后(号は中宮)
  三女 藤原寛子:敦明親王の女御
  四女 藤原威子:後一条天皇の皇后(号は中宮)

 <臨終にあたり>
 死期を悟った道長は、法成寺の東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の九体阿弥陀堂(無量寿院)に入り
九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、釈迦の涅槃と同じように、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、
自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれる

 <源頼光
 多田源氏の祖、満仲の子で、道長に仕えた
 大江山の鬼退治や、土蜘蛛退治の故事が残る


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