足利義満(あしかがよしみつ)(Yoshimitsu Ashikaga)

室町幕府 第3代征夷大将軍
在位:1369年(皇紀2029)正平24年/応安2年1月28日−1394年(皇紀2054)応永元年1月8日

生年:1358年(皇紀2018)正平13年/延文3年8月22日
没年:1408年(皇紀2068)応永15年5月31日
享年:51(満49歳)

父親:足利義詮(あしかがよしあきら)(2代将軍)
母親:紀良子(側室)
正室:日野業子
継室:日野康子
側室:藤原慶子、春日局ほか
子供:義持、義嗣、義教、大覚寺義昭ほか

官位:従一位、内大臣、左大臣、太政大臣など

墓所:相国寺
菩提所:等持院

諡号:鹿苑院太上天皇
法名:鹿苑院殿天山道義大居士
封号:日本国王
別名:室町殿

 足利義満(あしかがよしみつ)は、室町幕府 第3代征夷大将軍

 南北朝統一をさせ、各地の強力守護を制圧、将軍職を退いて出家した後も太政大臣として実権をふるった

 明と国交を開き、勘合貿易(かんごうぼうえき)により、日明貿易を振興する

 相国寺や北山殿(金閣寺)(鹿苑寺)を創建し、北山文化をもたらした

 邸宅を北小路室町(現在の今出川室町通付近)へ移し、豪華な邸宅は「花の御所」・「室町殿」とも称され、
後に政庁を兼ねた将軍邸が「室町幕府」と称されるようになった

 禅宗寺院の統制のために五山制度(五山・十刹・諸山)を整備した

【足利義満の歴史・経緯】

【足利義満のゆかりの地】

 <相国寺
 1382年(皇紀2042)弘和2年/永徳2年
 足利義満が、邸宅(花の御所)の東隣に創建した禅宗寺院
 足利義満は、禅の師であった天龍寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に開山となることを要請したが断られ、
開山を春屋妙葩の伯父であり師でもある高僧 夢窓疎石(むそうそせき)とし、春屋妙葩は、第二世住持となる

 <金閣寺(鹿苑寺)
 1397年(皇紀2057)応永4年
 足利義満が、河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって「北山殿」を造営したのが由来
 足利義満が将軍職を辞した後の隠居所で、北山文化の中心となったところ

 <等持院
 足利義満が火葬されたところ
 足利尊氏のお墓があり、足利歴代将軍の木像が安置されている

 <大報恩寺 千本釈迦堂
 1401年(皇紀2061)応永8年
 足利義満が、明徳の乱で敗戦死した山名氏清や兵士を弔うため「北野経王堂願成就寺」を
内野(北野天満宮門前)に建てたといわれる
 明治維新の神仏分離によって破却され、大報恩寺に解体縮小して移築され北野経王堂となる

 <大聖寺
 1382年(皇紀2042)弘和2年/永徳2年
 足利義満が開基となり、無相定円尼の岡松殿を寺院とし、法名にちなんで「大聖寺」された

 <引接寺
 足利義満は、ここの普賢象桜と狂言を気に入り「桜の見時に狂言を行うこと」と、
毎年、扶持米を寄進したといわれる

 <地蔵院
 足利義満が、金閣寺建立の余財で仮堂を建て、地蔵菩薩を祀り再建する

 <乙訓寺
 足利義満は、内紛をする僧徒を追放し、南禅寺の伯英禅師に与え再興させる

 <鹿王院
 1380年(皇紀2040)天授6年/康暦2年
 足利義満が、延命祈願のため、普明国師 春屋妙葩を開山として宝幢禅寺を建立したのが由来

 <龍吟庵
 方丈(国宝)の正面の扁額「龍吟庵」は、足利義満の筆
 開山堂の正面の扁額「霊光」は、足利義満の筆

 <正伝寺
 1340年(皇紀2000)興国元年/暦応3年
 足利義満の祈願所ともされ、十刹に加えられる

 <退蔵院
 瓢鮎図(ひょうねんず)(国宝)は、日本の水墨画の創始者の一人である禅僧 如拙(じょせつ)の代表作で、
足利義満の命を受けて心血注いで描かれた、現存する如拙の作品の中でも最高傑作といわれる
 足利義満が、「捕まえにくいなまずを、瓢箪でどのようにして捕まえるか」を京都五山の禅僧31人に
参詩を書かせた禅機画

 <室町第跡(花の御所)
 四季の花や名木で飾られた邸宅跡

 <御所八幡宮
 八幡宮は源氏の鎮守の社とされており、足利家もよく参拝していたといわれる

 <平岡八幡宮
 1407年(皇紀2067)応永14年
 社殿を焼失し、すぐに足利義満により再建され、高雄への紅葉狩りのときに平岡八幡宮を訪れたといわれる

 <新熊野神社
 1374年(皇紀2034)文中3年/応安7年
 室町三代将軍 足利義満が、新熊野神社において、初めて観阿弥・世阿弥親子の猿楽能を見たといわれる
 奉納は、「新熊野神事猿楽」
 この年が、「日本能楽史上紀元元年」といわれる

 <猿田彦神社
 1383年(皇紀2043)弘和3年/永徳3年
 足利義満により、本殿が造替えされる

 <敷地神社
 1397年(皇紀2057)応永4年
 足利義満が、北山殿を造営するときに、敷地神社を鎮守神として現在の地に移したといわれる

【その他】

 <南北朝統一>
 1392年(皇紀2052)元中9年/明徳3年
 足利義満は、南朝勢力が衰微したため、大内義弘を仲介に南朝方と交渉を行う
 南朝の後亀山天皇に、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や、
諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事などの和平案を提示する
 後亀山天皇が保持していた三種の神器を、北朝の後小松天皇に譲渡させ、
58年にわたる朝廷の分裂を終結させる

 <日明貿易(にちみんぼうえき)
 1401年(皇紀2061)応永8年
 足利義満は、「日本国准三后源道義」の名義で、博多の商人 肥富と僧祖阿を使節として明に派遣する
 明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された
 明に要請されて、倭寇を鎮圧した

 1404年(皇紀2064)応永11年
 日本国王が皇帝に朝貢する勘合貿易が始まる
 勘合符の有無によって公私の船を区別する方式を定め、多くの貿易利益を収めた

 <応永年号>
 1394年(皇紀2054)応永元年
 足利義満は、明の太祖 洪武帝の治世にあやかり、元号に「洪」の字を使おうとしたが、
「洪」は、「洪水につながり、また不吉な字である」として公家達に反発され実現しなかった
 それで足利義満は機嫌を損ねて改号を行わなかったといわれ
応永年号が、明治以前では最も長い元号となった

 <北山文化
 1397年(皇紀2057)応永4年
 西園寺家から、北山の別荘地「北山弟(ほくさんてい)」を譲り受け、
三層の金箔の舎利殿(金閣)を中心とする山荘「北山殿(きたやまどの)」(後の鹿苑寺)を造営する

 北山殿を中心に、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した文化が生まれ「北山文化」と称される

 <世阿弥
 1374年(皇紀2034)文中3年/応安7年
 観阿弥が、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)で催した猿楽能に12歳の世阿弥が出演する
 このとき、将軍 足利義満の目にとまり、観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになる
 この年が、「日本能楽史上紀元元年」といわれる

 <京都五山
 1386年(皇紀2046)元中3年/至徳3年
 足利義満が相国寺を創建し五山を改める
 五山之上に南禅寺
 第一に天龍寺・建長寺
 第二に相国寺・円覚寺
 第三に建仁寺・寿福寺
 第四に東福寺・浄智寺
 第五に万寿寺・浄妙寺
 として、京都五山が鎌倉五山より優位とされた
 僧録司制なども定めて住職の任命権なども掌握し、幕府の権限を発揮した

 <宇治茶
 足利義満が、宇治に新しい茶園を開拓し、宇治七名園ができ、宇治茶が隆盛する


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