明智光秀(あけちみつひで)(Mitsuhide Akechi)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

生年:1528年(皇紀2188)享禄元年
没年:1582年(皇紀2242)天正10年6月13日
享年:55

本姓:源氏
家系:清和源氏の摂津源氏系 美濃源氏土岐氏支流である明智家
賜姓:惟任(これとう)

父親:不詳(明智光綱、明智光國、明智光隆)
母親:不詳(若狭武田家出身 お牧の方)

通称:十兵衛
雅号:咲庵(しょうあん)、惟任光秀とも

妻:妻木煕子(ひろこ)
息子:光慶、十五郎など
娘:珠(細川ガラシャ)(細川忠興の妻)、津田信澄の妻、明智光忠の妻、明智秀満の妻など

出身:美濃国
お墓:西教寺、高野山奥ノ院

 明智光秀(あけちみつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

 戦国大名 織田信長の重臣の一人

 本能寺の変で、織田信長を討ち、京の焼き討ちなどを行っていた天魔 織田信長の恐政を絶った

 丹波国や滋賀郡など京の隣国の重要な地などを治め、善政を行ったとされ領国の各地で祀られている

【明智光秀の歴史・経緯】

【明智光秀の人物像】

 出生や織田家仕官以前については不詳

 織田信長の家臣団のトップとして重用され、丹波国や滋賀郡など京の隣国の重要な地を治める

 朝廷からも、室町幕府からも必要とされた

 領国では、税を低く抑えたり、治水工事を行うなど、善政を行ったとされ、領国の各地で祀られている

 射撃の天才ともいわれ、戦術も豊かで、大半の戦で勝利した武将

 連歌会や茶の湯を催したり、教養も豊かで、才覚に優れた文武両道の名将

 家臣の全員を平等に大切にし、戦死者の葬儀においても侍大将も足軽も同等に処遇したといわれる

 当時としては珍しく、側室を持たなかった

 <辞世の句>
 後世の編纂物によるものともいわれる
   「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
   心しらぬ 人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」

 <あだ名>
 「金柑頭(きんかあたま)」と呼ばれていたといわれる
 (羽柴秀吉(豊臣秀吉)は「サル」と呼ばれていたといわれる)

【明智光秀のゆかりの地】

 <本能寺
 光秀が織田信長の恐政を断った「本能寺の変」の後に、現在の地に移転された

 <谷性寺
 光秀が、谷性寺の不動明王を厚く敬ったといわれる
 光秀の首塚がある
 光秀の無量顕彰と慰霊のために立てられた七重石塔がある

 <愛宕神社亀岡市)>
 亀山城から愛宕山への登山口にある
 本能寺の変の数日前
 光秀が参拝して、織田信長を攻めるかどうかを占ったといわれ、  凶が3度の出て、4度目に吉を引いたといわれる

 <愛宕神社
 愛宕神社参拝の翌日、愛宕五坊の一つ西坊威徳院で連歌会が行われた
 明智光秀が発句を詠み、脇句を威徳院 行祐法印、第三句を連歌師 里村紹巴が付けた
 100韻が詠まれ、書き留めた懐紙が神前に奉納されたといわれる

 <勝竜寺城公園
 羽柴秀吉との山崎の合戦で、光秀が本陣を構えたところ
 娘 細川ガラシャが嫁いだ細川家の城
 城壁には鉄砲隊用の覗き穴がズラリとある
 敗北を悟った光秀は、近江で再起を図るべく北門から脱出したという

 <明智藪
 伏見区醍醐・小栗栖
 光秀が、農民に討たれたところ
 住宅地に接して先が見えないほど藪が生い茂っている
 光秀の祟りにより、さまざまな異変が起こったといわれる

 <お墓>
 大津市坂本の西教寺に光秀や左馬助のお墓がある(天海のお墓も歩いていける場所にある)
 高野山に光秀のお墓がある
 岐阜県山県市にも光秀のお墓がある

 <首塚>
 知恩院の近くにある
 小栗栖で討たれた時に、「知恩院に葬ってくれ」と遺言されたといわれる

 <胴塚>
 伏見区
 ぶどう農家の木に隣接している

 <神蔵寺
 本堂(瑠璃殿)の前にある結縁の大賽銭箱
 光秀が、本能寺へ向かうために馬を返した場所にあった桜の幼木が、
約400年後に大木となり、その木材を利用して賽銭箱が作られ奉納されたもの

 <金地院
 明智門
 光秀が、母の菩提のため大徳寺内に建立した門で、その後、現在の地に移築される

 <妙心寺
 明智風呂(重要文化財)
 光秀の叔父で、塔頭の太嶺院(廃寺)の開基 密宗和尚(みつそうおしょう)が、光秀の菩提を弔うために創建する

 <瓜生山
 光秀が、2ヶ月余り駐在して延暦寺の監視にあったといわれるところ

 <小畑川
 光秀により作られたといわれる、嵐山一ノ堰から長岡京市と続く用水路

【明智光秀の謀反理由】

 本能寺の変の謎は多く、様々な説の伝承がある

 <秀吉・家康黒幕説>
 羽柴秀吉徳川家康は、朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知っており、すぐに行動をとれるよう準備していたといわれる
 徳川家康には、織田信長に妻子を残虐された恨みがあった
 徳川家康は、本能寺の変の当日に織田信長の死を知り、すぐに堺から自国 岡崎城(愛知県岡崎市)へ戻った
 中国地方にいた羽柴秀吉も翌日に知り、約2万人の大軍を約10日間で備中高松城(岡山市)から京都に戻し、
「主君信長の仇をとった武将」として絶対的な影響力を得た

 <朝廷黒幕説>
 朝廷は、織田信長が、京都の寺院の焼き討ちを繰り返したり、
 正親町天皇に対して、元号を変えることを強要したり、
 賜った従三位の官位が低いと激怒して、正倉院の財宝である香木「蘭奢待」を切り取られてしまったりし、
 神格化宣言をしていた織田信長を恐れていた
 本能寺の変の数日前に愛宕山の西坊威徳院で行われた連歌会に多くの公家などが参加し、歌でエールを贈ったといわれる
 なお、光秀は、朝廷に謀反支援の汚名を着せないために、一言もその旨を明かさなかったといわれる

 <積年怨恨説>
 恩人でかつての主君だった朝倉義景との戦いを命じられたこと
 朝倉義景の頭蓋骨で作られた盃で祝杯の酒を飲めと強要されたこと
 比叡山の焼き討ちの実行部隊にさせられ、僧侶・学僧・一般人・老人・児童まで皆殺しにしろと命じられたこと
 波多野秀治を投降させるために人質となった光秀の母親を無視され、殺されてしまったこと
 丹波・近江などの領地を没収され、毛利氏を倒したら毛利領である出雲と石見を与えるとされたこと
 長宗我部の仲介となって長宗我部氏を護ってきており、降伏の意志を示させたが、それを反故にされ、
四国攻めを命じられたこと
 など

 <天下野望説>
 親友の細川幽斎・細川忠興父子への手紙に、50日ほどで世を平定した後に引退する旨が記されており、
天下をとる野望はなかったといわれる

 <足利義昭黒幕説>
 かつての主君 足利義昭の指令
 足利義昭に長年仕えていた細川藤孝が呼応していないこともあり、可能性はないといわれる

【その他】

 <愛宕威徳院での連歌会>
 本能寺の変の数日前、5月28日に、愛宕山の愛宕五坊の一つ 西坊威徳院で連歌会を開く
 天皇の側近などが集まり、本能寺の変のことを事前に知らせれており応援の歌を贈ったとされる
 光秀は、これらの歌を神前に納め、成功祈願をしたといわれる

 「時は今 雨が下しる 五月哉」(光秀の発句)
   「時」は、明智の本家 土岐氏のこと
   「雨」は、天(あめ)のこと
   「土岐氏が今こそ天下をゆるがす五月なり」と意図される

 「水上まさる 庭の松山」(僧侶最高位だった西ノ坊行祐)
   「水上(みなかみ)」は、みんなの神で朝廷のこと
   「松」は、待つ意図
   「朝廷は活躍を待っている」と意図される

 「花落つる、流れの末をせきとめて」(連歌界の第一人者 里村紹巴)
   「花」は栄華を誇る信長のこと
   「花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい」と意図される

 「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」(光秀の旧知 大善院宥源)
   「信長が作った霞(暗闇)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ)」と意図される


 <生存 南光坊天海説>
 南光坊天海は、徳川家康・徳川秀忠・徳川家光の3代に仕えた天台宗の僧侶
 延暦寺から江戸に下り、絶大な権力を持ち、徳川将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と称された

 光秀は、影武者の死によって生存し、出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという俗説がある

 年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらないといわれる


 光秀が討たれたとされる小栗栖の領主だった公家は、その後、生き残った明智一族の世話をされたといわれる
 この地で、光秀を逃す裏工作がされたといわれる

 寛永年間(1624年〜1644年)の調査で、小栗栖に百姓 中村長兵衛を知る村人はいなかったとされる

 羽柴秀吉が光秀の首を確認したのが死後4日後で、首実検に出されたのは3体あり、どれも暑さで著しく腐敗していたといわれる

 明智本家の岐阜美山町には、影武者 荒木山城守行信が光秀の身代わりなったとの伝承がある

 光秀と共に殉死したとされる2人の家臣も、光秀の親友の細川家に2人とも仕えたとされ、当時の家伝に名前が残っているといわれる

 光秀は、一族や家臣の多くが死んでしまい、その霊を供養するために延暦寺で出家したといわれる
 延暦寺も、仏敵 織田信長を討伐してくれた光秀を手厚く迎えたといわれる

 比叡山の松禅院に現存する石灯籠には、「慶長二十年願主光秀」と彫られており、
 1615年(皇紀2275)慶長20年に光秀が寄進したものといわれる

 亀山城の近くにある慈眼禅寺(じげんぜんじ)には、光秀の位牌と木像が安置されている
 南光坊天海が没後に朝廷から贈られた大師号は、「慈眼大師」
 大師号の諡号が贈られたのは、鎌倉時代以来の340年ぶりで、朝廷の脅威であった信長を葬った功績といわれる

 南光坊天海のお墓は、光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所にもある
 その側には徳川家康の供養塔(東照大権現供養塔)もある

 南光坊天海が江戸で初めて徳川家康と会ったとき、
 「初対面の二人であったが、まるで旧知の間柄のように、人を遠ざけて、密室で4時間も語り合った
 大御所(徳川家康)が初対面の相手と人払いして面会をしたことがなく、側近たちは驚かされた」といわれる

 南光坊天海は、徳川家康のブレーンとなり、徳川家康も頭が上がらず「黒衣の宰相」と称された

 徳川家康の子の2代将軍 徳川秀忠の「秀」と、3代将軍 徳川家光の「光」で、「光秀」となる

 お江(信長の妹 お市の娘)の子 徳川家光の乳母に、光秀の重臣 斎藤利三の娘 春日局が選ばれている
 本能寺の変で先陣を切った武将の娘が、信長の妹の孫の乳母、将軍の養育係にされている

 日光の華厳の滝が見える平地を、南光坊天海が「明智平(だいら)」と名付けたといわれる
 あるいは、「明智平」と称されていたこの地を訪れた南光坊天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったといわれる

 徳川家康の墓所 日光東照宮の入口の陽明門を守護する2対の木像の武士座像が着ている袴の紋は、
明智家の「桔梗紋」といわれる
 この武士像は、徳川家康の干支である虎の毛皮の上に座っており、「家康を尻に敷いている」といわれる

 日光東照宮の門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている

 学僧とされる南光坊天海が着用したという鎧が残る

 日光山輪王寺にある「徳川家康公・家光公・天海大僧正御影額(1652年(皇紀2312)慶安5年)」
 2代 秀忠ではなく、南光坊天海が描かれているほどの大物人物だったといわれる


 <明智家の桔梗紋>
 桔梗の花の形の紋
 安倍晴明の五芒星を「桔梗印」と称され、晴明神社では神紋とされている

 <坂本龍馬の坂本家>
 坂本城を守っていた明智左馬助の末裔が、土佐まで落ち延びたのが坂本家の由来と伝承されている
 坂本家の家紋は、明智家と同じ桔梗紋


【京都検定 第1回3級】

33.妙心寺について、次のことは正しいかどうか?
(ウ)浴室は、明智光秀を追善するために建立されたといわれ、「明智風呂」と称される

【京都検定 第3回3級】

【京都検定 第5回3級】

【京都検定 第10回3級】

【京都検定 第11回3級】

【京都検定 第5回2級】

【京都検定 第8回2級】

【京都検定 第10回2級】

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