長州藩(ちょうしゅうはん)

藩庁:萩城
所在地:山口県萩市大字堀内字城内   地図情報

藩祖:毛利輝元

藩校:明倫館(めいりんかん)

別称:萩藩(はぎはん)、山口藩、毛利藩


 長州藩(ちょうしゅうはん)は、長門国阿武郡萩(現在の山口県萩市)と周防国吉敷郡山口(現在の山口市)に藩庁をおいた外様藩

 周防国と長門国を領国とした外様大名 毛利氏を藩主とする

 藩庁は、萩城(現在の萩市)に置かれ、後に、周防山口の山口城(山口政事堂)に移る

 幕末維新には討幕運動の中心となり、明治維新では政治家を多数輩出した

【長州藩の歴史・経緯】

【長州藩の歴代藩主】

 安芸戦国大名 毛利元就(安芸の国人領主 毛利弘元の次男) 従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守、贈正一位
 当主期間:1500年(皇紀2160)明応9年−1557年(皇紀2217)弘治3年

 安芸戦国大名 毛利隆元(毛利元就の長男) 備中守、従四位下大膳大夫 贈正三位
 1557年(皇紀2217)弘治3年−1563年(皇紀2223)永禄6年

 安芸戦国大名 毛利輝元(もうりてるもと)(毛利隆元の正室の子) 従三位・権中納言
 1563年(皇紀2223)永禄6年 - 1623年(皇紀2283)元和9年

 <長州藩主>
 初代 毛利秀就(ひでなり)(毛利輝元の側室との長男) 従四位下・長門守  右近衛権少将
 藩主期間:1623年(皇紀2283)元和9年 - 1651年(皇紀2311)慶安4年

 2代 毛利綱広(つなひろ)(毛利秀就の正室の子) 従四位下・大膳大夫 侍従
 1651年(皇紀2311)慶安4年 - 1682年(皇紀2342)天和2年

 3代 毛利吉就(よしなり)(毛利綱広の正室の長男) 従四位下・長門守、侍従
 1682年(皇紀2342)天和2年 - 1694年(皇紀2354)元禄7年

 4代 毛利吉広(よしひろ)(毛利綱広の側室の次男) 従四位下・大膳大夫、侍従
 1694年(皇紀2354)元禄7年 - 1707年(皇紀2367)宝永4年

 5代 毛利吉元(よしもと)(養子、長府藩主 毛利綱元の長男) 従四位下・長門守、侍従
 1707年(皇紀2367)宝永4年 - 1731年(皇紀2391)享保16年

 6代 毛利宗広(むねひろ)(毛利吉元の正室の子) 従四位下・大膳大夫、侍従
 1731年(皇紀2391)享保16年 - 1751年(皇紀2411)宝暦元年

 7代 毛利重就(しげたか)(養子、長府藩主 毛利匡広の十男) 従四位下・式部大輔、侍従
 1751年(皇紀2411)宝暦元年 - 1782年(皇紀2442)天明2年

 8代 毛利治親(はるちか)(毛利重就の正室との子) 従四位下・大膳大夫、侍従
 1782年(皇紀2442)天明2年 - 1791年(皇紀2451)寛政3年

 9代 毛利斉房(なりふさ)(毛利治親の正室との長男) 従四位下・大膳大夫、侍従
 1791年(皇紀2451)寛政3年 - 1809年(皇紀2469)文化6年

 10代 毛利斉熙(なりひろ)(毛利治親の正室との次男) 従四位下・大膳大夫、侍従
 1809年(皇紀2469)文化6年 - 1824年(皇紀2484)文政7年

 11代 毛利斉元(なりもと)(毛利斉熙の婿養子、毛利重就の側室との六男 毛利親著の長男) 従四位上・大膳大夫 左近衛権少将
 1824年(皇紀2484)文政7年 - 1836年(皇紀2496)天保7年

 12代 毛利斉広(なりとう)(養子、毛利斉熙 正室との次男) 従四位下・大膳大夫
 1836年(皇紀2496)天保7年

 13代 毛利敬親(たかちか)(毛利斉元の側室との長男、毛利斉広の娘婿) 従四位下・大膳大夫
 1837年(皇紀2497)天保8年 - 1869年(皇紀2529)明治2年

 14代 毛利元徳(もとのり)(養子、徳山藩主 毛利広鎮の十男) 従三位・参議
 1869年(皇紀2529)明治2年 - 1871年(皇紀2531)明治4年

【長州藩】

 <倒幕の精神>
 安芸 毛利家が江戸幕府より不本意な減封処分などを受け続けたため、「倒幕」が国是とされていたといわれる
 毎年、新年拝賀の儀において、家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主は「時期尚早」と答えるのが
習わしだったといわれる

 <支藩>
 長府藩
 徳山藩
 岩国藩
 清末藩(長府藩の支藩)

【長州藩の主なゆかりの人物】

 吉田松陰(よしだしょういん)
 長州藩士、国内の大改革を推し進め、松下村塾を開く、明治維新の精神的指導者

 高杉晋作(たかすぎしんさく)
 長州藩士、松下村塾に学ぶ、尊王攘夷の志士、奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた

 伊藤俊輔(伊藤博文)
 松下村塾に学び、岩倉使節団の副使、大日本帝国憲法の起草の中心となり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣

 桂小五郎(木戸孝允)
 長州藩士、長州閥の長(おさ)、尊王攘夷派の中心人物で、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」「維新の十傑」とされる

 山縣有朋
 長州藩士、陸軍軍人、政治家、「元老中の元老」「国軍の父」「日本軍閥の祖」と称される

 久坂玄瑞(くさかげんずい)
 長州藩士、松下村塾に学ぶ、過激尊攘思想

 井上馨(いのうえかおる)
 長州藩士、政治家、実業家

 吉田稔麿(よしだとしまろ)
 長州藩の活動家、松陰門下の三秀

 入江九一(いりえくいち)
 松下村塾の四天王の一人、尊攘思想が窮地に立たされると禁門の変にて打開を目論む。だが、時運を得ずして死す

 赤根武人(あかねたけと)
 松下村塾に学ぶ、奇兵隊創設に貢献、下関戦争にて活躍する

 吉田稔麿(よしだとしまろ)
 松下村塾の四天王の一人、池田屋事件にて新選組に斬られる

 山田顕義(やまだあきよし)
 大村益次郎に次ぐ第2番目の高杉晋作の後継者といわれた、司法大臣を務める

 前原一誠(まえばらいっせい)
 吉田松陰から智勇、誠実の将と評価を受ける

 鳥尾小弥太(とりおこやた)
 奇兵隊士として活躍する、陸軍少将を務める


【長州藩のゆかりの地】

 <長州藩邸跡
 中京区御池通木屋町通西入ル北側一之舟入町(京都ホテルオークラ前)
 尊王攘夷派の拠点となったところ

 <伏見藩邸>
 伏見区表町、竹田街道(府道115号線)沿い

 <上善寺
 蛤御門の変(禁門の変)で、新選組に討たれた8人の首塚がある
 越前藩士 桑山十蔵により越前藩の菩提寺である当 上善寺に葬られた
 長州藩藩士 入江九一、久留米藩士 原道太、久留米藩士 半田門吉、土佐藩の那須俊平、長門の田村育蔵、緒方弥左衛門、
讃岐高松藩士 小橋友之輔、他1名
 門前に「贈 正四位入江九一外七名首塚」の石標が立つ

 <弘源寺
 蛤御門の変(禁門の変)のとき、天龍寺に陣を構えた長州藩による試し切りの刀傷が残る

 <廣誠院
 明治時代以前は、長州藩邸跡があったところで、その後、薩摩出身の実業家 伊集院兼常が所有し、
数寄屋造の書院・茶室・広間などを、高瀬川から引き込んだ池庭に面して創建されている

 <退耕庵
 鳥羽・伏見の戦いのとき、東福寺に長州藩の陣が置かれ、
 退耕庵は、鳥羽・伏見の戦いの戦死者のうち48名が葬られ菩提寺となる

 <蛤御門
 長州藩の強硬派を中心に挙兵した約3000名の藩士が上洛し、御所を守る薩摩藩・会津藩など幕府軍と激戦となった
 蛤御門付近が、一番の激戦地となり、「禁門の変(蛤御門の変)」と称される

 <池田屋騒動跡
 潜伏していた長州藩の尊皇攘夷過激派を新選組が襲撃し、多数の死傷者と逮捕者を出した池田屋騒動が起こったところ

 <桂小五郎像
 長州藩藩士で尊皇攘夷派の中心人物だった桂小五郎(後の木戸孝允)の顕彰像
 京都市役所の東、長州藩邸跡である現在の京都ホテルオークラの北西の一角に立てられている


【京都検定 第1回3級】

7.元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)が勃発したきっかけとなった、新選組が襲撃した、尊皇攘夷派の長州藩士らが会合していた三条木屋町西入の旅籠はどこか?

【京都検定 第3回3級】

【京都検定 第7回3級】

【京都検定 第10回3級】

【京都検定 第1回2級】

【京都検定 第7回2級】

【京都検定 第7回1級】

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